古代日本史 弥生時代篇

 

2節 農耕社会の成立

 弥生文化の成立

 縄文時代が終わりに近づいた紀元前5~4世紀頃、土地を耕して水を張り、米をつくる水稲耕作が北部九州から始まった。この水稲耕作を基礎にする農耕文化が成立した時代を弥生文化と呼ぶ。この文化は北部九州を端に発し、やがて西日本一帯に広がった。
 この文化が成立した時代を弥生時代と呼び、土器や大陸からもたされた青銅器の変遷などから、紀元前5世紀~紀元前2世紀を前期、紀元前2世紀~紀元前1世紀を中期、1~3世紀を後期と区分する。
続縄文文化と貝塚文化
 稲作は急速に本州全体へと広がったが、北海道や沖縄諸島には定着しなかった。北海道では、狩猟採集・漁労を基礎とする縄文時代以来の文化が続き、縄文土器の伝統を強く引いた土器が用いられた。このような約2300年前から約1400年前までの北海道の文化を続縄文文化という。続縄文文化の海岸地域では、特に漁労文化が発達し、北海道有珠モシリ遺跡では図13のような漁労具などの見事な骨角器が出土している(図13)。有珠モシリ遺跡では、奄美・沖縄などの南西諸島から運ばれたと考えられるイモガイなどの南海産の貝で作った腕輪が出土しており、日本海を通じて広大な交易があったと考えられている。このことは、続縄文文化が弥生文化から孤立したものではないことを示している。
 また、続縄文文化の後半には、東北地方の弥生文化との交流も活発であった。北海道では、7世紀以降になると、擦文土器を伴う擦文文化が成立するが、この文化も漁労・狩猟採集を基礎に置く文化である。
 一方、奄美・沖縄などの南西諸島は、採集・漁労を中心とする貝塚文化続いた。貝塚文化は名の通り漁労が活発であり、特に珊瑚礁内の漁労に比重が置かれた。それと伴に南海産の貝の採集活動が活発になったが、それは北部九州で盛んに作られた貝輪の原料の需要を満たすためであった。つまり、貝の交易があったとかんがえられる。
弥生文化の始まり
  弥生土器とは、1884(明治17年)年、東京の本郷町弥生町の向ヶ岡貝塚で発見され、この地名にちなんで名付けられたものである。その弥生土器は、縄文土器に朝鮮半島からの技術が加えられて生み出された。縄文土器と比べて薄手、硬く、赤褐色を帯びた土器であり、無文か簡素な文様がほどかされている。また、弥生土器には以下の種類がある(図15)。
  •   形       穀物などの貯蔵に用いる
  •  鉢・高甕         煮炊き用
  •  壺杯   食物を盛る
  しかし、矢の先につける石鏃などの打製石器、漆製品の製作技術、竪穴住居など、縄文文化の伝統の伝統もいたるところに見る事ができる。
 九州北部や中国、近畿地方で発見される弥生人骨の中には、縄文人骨と比べて背が高く、顔が面長で起伏の少ないものが見られる。そうした人々は、大陸からの渡来人、あるいはその子孫であり、弥生文化はそのような大陸からの人々が在来の縄文人とともに生み出したものと考えられている。
 弥生人の生活
 弥生時代になって食料生産が始まるとともに、人々の生活も多く変化した。この時代の水田は、三角州などの低湿地につくられた湿田や、自然堤防や段丘上に立地する半乾田、弥生後期の西日本では灌漑施設を整備した乾田など多様なものであった。水田の区画は1辺数m程度の小区画のものが多いが、灌漑施設を備えた本格的なものであり、籾を水田に直接播く直播だけではなく、田植えも行われていたとする説もある。地域によってはアワやキビなどの雑穀も栽培されていった。狩猟も漁労も依然として盛んであり、イノシシの飼育が行われていたことも知られている。
 また、住居は縄文時代同様に竪穴式住居に住んでいた。弥生時代初頭までは、稲などの食料は地面に穴を掘った穴蔵に蓄えられていたが、前期のうちに高床倉庫が現れ広がり、次第に高床の住居も増えていった。集落を構成する住居の数も多くなり、西日本を中心に大規模集落が各地に現われた。
  弥生時代には水稲稲作を筆頭に多くの文化や技術が中国や朝鮮半島から伝わったといえる。以下のものが伝来した(図17)。
  • 石包丁 -稲の穂首刈りをする石器で、磨製と打製の2種ある。
  • 木製農具-堅い木材で作られることが多い。地方によっての特徴がある。
  • 木鍬・木鋤-耕作具
  • 木臼・竪杵-籾殻を穀粒から取り去る脱穀具
  •  又鍬・えぶり‐田畑を均すもの
  •  田下駄 −深田に入る際に用いる特大の下駄。
  •  田舟 −収穫時に深田に引き入れ穂束などを運ぶ小舟。
  •  大陸系磨製石器-朝鮮半島から伝来した磨製石器の一群。弥生後期に鉄器に代わって消滅。
  •  太型蛤刃石斧(伐採用)
  •  柱状片刃石斧・扁平片刃石斧(木工用)
 収穫物は高床倉庫や貯蔵穴に収められ、また、機織り技術も大陸から伝わり、銅と錫の合金である青銅器は前期に、鉄器は前期末〜中期初頭に普及するようになる。
鉄製工具としては斧・刀子などが使用されるようになり、後期には石器の多くが姿を消し、刀先に鉄器をつけた鍬や鋤、鉄鎌などが鉄製となり、農業の生産力を高めた。
弥生時代の葬礼
 死者は、集落近くの共同墓地に葬られた。葬形方式は両脚を伸展する伸展葬が多く、埋葬方法は以下の種類がある。
  •  土坑墓 -地中に墓穴を掘って掘って埋葬
  •   木棺墓 -土坑の中に木棺を置く墓
  •   箱式石棺墓 -石の棺を使用する、西日本に多く、合葬することがある。
  •   甕棺墓 -大型の土器で死者を葬る。北部九州で多い。(図18,19)• 支石墓 -甕棺墓と同じく北部九州に多い。甕棺墓とは図19のような違いがある。朝鮮半島南部の影響が大きい
 このように盛土をした墓が広範囲に出現するのが弥生時代の特徴である。また、墳丘の周りに溝を巡らした方形周溝墓(図20)が、近畿で出現し東海、北陸などに多く見られ、東日本にも広まった。加えて、東日本には死者の骨を土器に詰めた再葬墓が見られる。このように弥生時代の墓制は地域によって多様である。
 北部九州の弥生時代中期の甕棺墓の中には、三十数面もの中国鏡や青銅製の武器など副葬したものがみられる。後期になると西日本の各地で大規模な墳丘を持つ墓が出現した。以下の2つがある。 
  •  楯築墳丘墓 -岡山県倉敷市にあり、直径40mの円形墳丘に両側に突出部を持つ。木棺内には鉄剣と大量の玉類が副葬されており、特殊器台が墳丘上に置かれている。
  •  四隅突出型墳丘墓 -山陰地方で多く見られる。墳丘の斜面に石が張られ四隅が突出する独特な形を持つ。
 このような多量の副葬品を持つ大型墳丘墓の出現は各地に有力な支配者が誕生したことを示している。
 集落では豊作を祈願し、また収穫に感謝するマツリが行われていた。土器などにシの絵がかかれ、鳥形の木製品(図22)がつくられたが、これは弥生人が季節ごとに生えかわるシカの角をイネの象徴として鳥を現世と死後の世界を住来し、イネをもたらす生き物と考えたていたのではないかとされている。また、鹿・猪などの獣骨や亀の甲羅に焼け熔を当てて、割れ目の入り方で吉凶を占うト骨、ト甲4の跡が各地で出土している。
 弥生時代のマツリには、青銅祭器が用いられた。いずれも、朝鮮半島に起源を持つとされ、日本に伝来し、象徴化にともない、祭祀器は大型化した。また、青銅祭器は地方によって偏りがある。
  •  銅剣‐細型と平型があり、前者は輸入品が多く、実用的で北部九州に多く、後者は国産品、非実用で瀬戸内海中心に分布する。平型銅剣が有名。
  •  銅矛‐九州北部を中心に分布する。棒の先端に取り付ける。銅剣と違うところは棒に刺すのではなく、填め込む所である。
  •   銅戈‐九州北部中心に分布する。棒の側面に刃を直角につけたもの。細形と広形があり、主に宝器、祭器として用いられた。
  •  銅鐸‐近畿中心に分布する。流水紋や図23のように当時の生活を写す原始的絵画が鋳出されているのが特徴。
 弥生時代中期より鉄素材から鉄器を生産し始めた。石製工具はやがて伐採用の鉄斧、加工用の鉇や鉄製刀子など、鉄製工具に変られ、弥生後期には東北地方南部に至るまで、ほぼ鉄器に変わった。このように鉄器が普及した弥生時代後期以降は鉄器時代とすることができる。
地域連合の成立
 水稲耕作が始まると、耕地・水・余剰生産物の争奪を巡って戦いが起こるようになり、各地で集団が形成されるようになった。これらの事は、首なし人骨や石鏃が刺さった人骨から読み取ることができる。それに伴い、鉄製武器が朝鮮半島から流入するようになった。鉄剣・鉄刀・鉄鏃などがおもである。
そのことから、戦いのための武器や防御的施設を備えた集落が出現した。居住地を溝で囲む環濠集落や平地との標高差が40m以上もある高地性集落である。こうした戦いの時代りに入り、強力な集落がいくつかの集落を統合し、各地に「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりが分立していった。多量の副葬品や巨大な墳丘墓の被葬者は、こうした小国の王(首長)であると考えられている。
        このような日本の状況は、中国の歴史書にも記載されている。
 
    1. 「漢書」地理志-1世紀に班固によってつくられた 前漢の歴史書。
           「楽浪海中5に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以って来り献見す」という日本に関する最古の記述がある。
   
 2. 「後漢書」東夷伝-范曄か書いた後漢の歴史書。
            紀元57年に倭の奴国の王の使者が後漢の都洛陽をおもむいて光武帝から印綬を受けたと記されている。江戸時代に福岡県志賀島で「漢委奴国王」と彫られた金印が当時の印綬だと考えられている。107年には、倭国王帥升等が生口160人を安帝に献じたことが記されている。これらの小国は、銅鏡や鉄器など中国や朝鮮半島の先進的な文物を手に入れる上で有利な位置にあり、他の小国より倭国内で立場を高めようとして中国に使者を送ったとされる。
            その後桓帝と霊帝の間に倭国は大いに乱れたと記述されている。
 

邪馬台国連合 

    3. 『三国志』の「魏志」倭人伝6‐紀元3世紀に晋の陳寿によって編纂。
           倭国では2世紀の終わり頃に大きな争乱がおこる状態が続いていたとされる。そこで国々が共同で邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国連合がうまれた。共立された卑弥呼は景初二年(239)年に魏の皇帝に大夫難升米使いを送って、男女の生口10人や織物を献じ、「親魏倭王」7の称号とその金印紫綬、織物、金8両、五尺刀2口、銅鏡100面などが与えられた。
     卑弥呼は、「鬼道を事とし、能く衆を惑はす」とあり、巫女として神の意思を聞くことに優れてたらしく、長く夫はなく、政務は弟がとっていたという。
            社会には、大人と下戸の明確な身分の差があり、下戸が大人と道で会った際は後ずさりして、草むらに入り、ひざまずいて、両手を地面につけたという。また、国内には法律があり、それに対する刑罰もあった記されている。
    人々には、租・賦の税を納めさせ、それらを収納するための邸閣がある。国々には、市場があり、そこでは交易がなされ、大倭という役人がが管轄している。。邪馬台国はそれより北方の国々に対して一大率という役人を置き、監視させており、それは常に伊都国に置かれている。
  正始8年(247)年、卑弥呼は魏の帯方郡に使者を送り、南の狗奴国との攻防を報告している。その後、卑弥呼が亡くなったとき、卑弥呼は大きな塚に葬られ8、後継に男王を立てたが、国内は治まらなかった。そこで卑弥呼の宗女(同族の女性)である壱与(台与)という13歳の女子を王として立てた所、国は治まったという。しかし、266年、晋の都洛陽に倭の女王が使いを送ったのを最後に以後150年間倭国に関する記述は中国の歴史書から消えている。
 邪馬台国の所在地については、近畿地方の大和に求める説と、北部九州に求める説の2つが有力である。近畿説9を取れば、三世紀前半に西日本一帯に及ぶ広域の政治連合が既に成立したとなり、のちのヤマト政権との連続性があることになる。一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は北部九州を中心とする小規模なもので、のちのヤマト政権とは全くの別物で、九州の邪馬台国連合を統合したか、あるいは邪馬台国を勢力が東遷したかということになる。

『漢書』地理志
 楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為し、歳時¹をもつて来たりて献見すと云ふ。

『後漢書』東夷伝 
 建武中元二年¹、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫²と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。安帝、永初元年³倭国王帥升等、生口⁴160人を献じ、請見を願う。桓霊の間⁵、倭国大いに乱れ、更相攻伐歴年主あるじなし。
①57年。②身分。③107年。④生きている奴隷と言われている。⑤後漢の桓帝と霊帝の頃、つまり147~189年の間。

邪馬台国——「魏志」倭人伝(「三国志】魏書東夷伝倭人条)
 倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑をなす。旧百余国、漢の時朝見する者有り。今使訳通ずる所三十国。郡より倭に至るには海岸に循ひて水行し、・・・・・南、邪馬臺国¹に至る。女王の都する所なり。………………其の南に狗奴国有り、男子を王と為す。・・・・・・女王に属せず。・・・・・
男子は大小²となく、皆黥面文身³す。…………男子⁴は皆露紒⁵し、木緜をもって頭に招く。真の衣は横幅、ただただ結束して相連ね、略々縫うふこと無し。婦人⁶は被髪屈紒⁷し、衣を作ること箪被の如く、其の中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。……………… 
 その俗、挙事行来に、云為する所あれば、すなわち骨を釣きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。……………其の法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸及び宗族を滅す。尊卑はそれぞれ差序ありて、相臣服して足る。・・・・・租賦⁸を収むに邸閣⁹あり。国々市有り、有無を交易し、大倭⑩をして之を監せしむ。女王国より以北には、特に一大率⑪を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す⑫。………………下戸大人と道路に相逢へば、逡巡⑬して草に入り、辞を伝え事を説くには、或いは蹲り或いは跪き、両手は地に拠り之が恭敬をなす。………其の国、本亦男子を以て王と為し、往まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。鬼道14を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫壻⑮無く、男弟有り、佐けて国を治む。……………景初二年六月⑯、倭の女王、大夫難升米等を遣し郡に語り、天子に詣りて朝献せんことを求む。 ……………其の年十二月、詔書して倭の女王に報じてい曰く「……………今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。……」と。…………… 卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女⑰壹与⑱の年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。
①臺(壱)は台の誤記か。②長幼。③顔や体に入れ墨をする。④男子の服装は袈裟衣のようなもの。⑤髪をみずらに結ぶ。⑥女性の服装は貫頭衣のようなもの。⑦髪を後ろで結ぶ。⑧租税⑨倉庫。⑩官名か。⑪役職の一つとされる。⑫おそれはばかる。⑬しりごみする。⑭呪術。⑮夫。⑯景初三年(239)年の誤り。⑰一族の女。⑱臺与の誤りともいわれる。

弥生時代の遺跡

  •   菜畑遺跡-佐賀県唐津市にある縄文晩期~弥生時代前期の水田跡。住居跡、墳墓・なども出土した。
  •   板付遺跡-福岡県福岡市にある縄文晩期~弥生初期の遺跡。土器が複数共存し、石包丁、炭化米、水田跡なども出土した。環壕集落をつくり、貝塚も存在する。
  •    砂沢遺跡-青森県弘前市にある弥生時代前期の水田跡。東日本最古の水田跡とされる。
  •   垂柳遺跡-青森県南津軽郡田舎館村垂柳にある弥生時代中期の水田跡。
  •   立屋敷遺跡-福岡県遠賀川下流にある弥生初期から中期の遺跡。川床から多量の土器が発見され、それらの土器は遠賀川式土器と名付けられ、西日本の弥生時代前期の文化の総称となった。
  •  土井ヶ浜遺跡-山口県の響灘に面した海岸砂丘にある弥生前期末を中心とする渡来系弥生人の墳丘墓跡。
  •  登呂遺跡-静岡県南部の安倍川東岸の後背湿地にある弥生後期の遺跡。平地式の住居跡、高床式倉庫などの集落と多数の木製農具が出土、矢板市を打ち込んで仕切った畦畔、水路、水田跡が発見された。
  •  唐古・鍵遺跡-奈良県磯城郡田原本町の唐古地区と鍵地区にまたがる弥生前期~後期にかけての遺跡。高床式建物、楼閣が描かれた線刻土器出土。
  •  吉野ケ里遺跡(図24)-佐賀県神崎郡吉野ヶ里町にある日本屈指の大環壕集落。弥生時代前期に集落を形成、中期に墳丘墓築造、後期には物見櫓が出現する。
  •   大塚遺跡-横浜市港北区・都筑区の台地上に弥生中期の環壕集落。
  •  加茂遺跡-兵庫県川西市にある弥生時代の大規模環壕集落。後期には急速に衰退する。
  •  池上曽根遺跡-大阪府和泉市から泉大津市にある大環壕集落。大型な建物跡がある。
  •  朝日遺跡-愛知県清須市から名古屋市西区にまたがる弥生中期の遺跡。環壕集落があり、その厳重さから戦い思わせるものがしゅつどしている。
  • 紫雲出山遺跡-香川県西部の標高352mの紫雲出山山頂にある弥生中期後半の高地性集落。
  •  古曽部・芝谷遺跡-大阪府高槻市にある弥生後期の高地性集落かつ、環壕集落。
  • 荒神谷遺跡(図25)-島根県出雲市斐川町神庭の丘陵上の遺跡。358本の中細形銅剣と銅矛16本・銅鐸6個が出土した。
  •  加茂岩倉遺跡-荒神谷遺跡に近く、雲南市の加茂町岩倉の山中にある遺跡。銅鐸が39個発見された。
  •  須玖岡本遺跡-福岡県春日部市にある大規模遺跡群。その中の大石の下から甕棺墓が発見され、その中から多数の副葬品が出土し、奴国王の応募とかんがえられている。
  •  纏向遺跡-奈良県桜井市の三輪山西麓に広がる3~4世紀の巨大遺跡。各地からの搬入土器が出土し、当時ヤマト政権の中心部とされている。

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