古代日本史 古墳時代篇

 

2章 古墳とヤマト政権
 1節 古墳文化の展開

 古墳の出現とヤマト政権

弥生時代後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。奈良県の箸墓古墳(図26)などをはじめとする出現期古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺や石棺を堅穴式石室におさめた埋葬施設や多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴を持っていた。
 古墳は各地の豪族たちと共通の意識のもとつくり出された墓制であり、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたと考えられる。出現期の古墳の中で大規模なものは、奈良県(大和)に集中し、この時期には大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。古墳は遅くとも4世紀の申頃までに東北地方南部にまで波及したが、これは東日本までの広大な地域がヤマト政権に組み込まれたことを示している。
 前期・中期の古墳の文化
 古墳には、前方後円墳・前方後方墳(東日本で多い)・円墳・方墳など様々な墳形がみられる。数が多いのは円墳や方墳であるが、大規模な古墳はいずれも前方後円墳であり、各地の有力豪族が採用した墳形であった。
 古墳の墳丘上には素焼の焼物である埴輪が並べられた。埴輪は円筒植輪と形象埴輪の2種に分けられる。
  •  円筒埴輪ー筒形・壼形・朝顔形などがある。初期からあり、並べられてるものの大半はこれである。
  •  形象埴輪ー古墳中期(4世紀後半)より出現。家形埴輪・器財埴輪(盾・靫・蓄など)に始まり、5世紀中頃には人物埴輪・動物埴輪が製作された。当時の風俗を知ることができる資料。
斜面は葺石でおおわれ、墳丘のまわりには濠をめぐらしたものもある。
 埋葬施設には、前期・中期は木棺や石棺を堅穴式石室におさめられたものや、石室をつくらず、棺を粘土でおおった粘土槨など堅穴系のものが営まれた。後期になると横穴式石室が多くなる。これには、墳丘の横に羨門という入口があり、遺体を安置する玄室とそれに通じる羨道がある。いつでも追葬ができる家族墓的性格を持つ。副葬品も、前期には鉄製の武器や農工具などともに、三角縁神獣鏡をはじめとする多量の銅鏡や勾玉・管玉などの玉類、腕輪型石製品など況術的・宗教的彩の強いものが多く、この時期の古墳の被葬者である各地の豪族たちは司祭者的性格をもっていたことがうかがえる。中期になると、副葬品の中に鉄製の武器(刀剣)・武具(短甲・冑)が多くなり、馬具なども加わって被葬者の武人的性格が強まったことを示している。

 後期・終末期の古墳文化

 古墳時代の後期になると、古墳自体にも大きな変化が見られるようになる。古墳時代の墳形には変化なく、埋葬施設が竪穴式石室から朝鮮半島の古墳の影響を受けた横穴式石室が普及する。それとともに副葬品にも変化が生じる。それまでの鉄製武器、馬具などに加えて新しく多量の須恵器や土師器などの土器が加わるのである。こうした後期の変化は、朝鮮半島などの古墳ととも共通する新しい葬送儀礼や来世観が広がり、反映したものであると考えられている。
 古墳中期以降に出現した人物、動物埴輪などの形象埴輪の樹立は、後期になるとさらに盛んになった。九州の古墳には土製の埴輪とともに石の埴輪である石人・石馬が立てられ、九州・山陰地方、茨城・福岡県などの古墳や横穴には、墓室の内部に彩色や線刻による壁画をもつ装飾古墳など古墳の地域色が顕著になった。
 古墳後期、つまり5世紀後半から6世紀にかけて、古墳のあり方にもおおきな変化が生じる。近畿中央部には依然として巨大前方後円墳が営まれるのに対し、地方においては大規模な古墳がみられなくなる。このような変化は、ヤマト政権の性格が豪族の連合政権から大王を中心とし、各地の豪族がそれに服従する形へと大きく変わったことを示してる。
 それと同時にみられる変化として注目されるのは、小型古墳の著しい増加である。大規模な平野部やその周辺だけではなく、山間部や瀬戸内の小島にまで群集墳と呼ばれる小古墳が多数営まれる様になる。例えば、奈良県の新沢千塚古墳群や和山県の岩橋千塚古墳群などなどがあり、これらのことはそれまで古墳を造営することが考えられなかった階層の人々までもが古墳をつくるようになったこと示すものである。本来は各地の支配者である首長だけで構成されていた連合政権の身分秩序に、新たに台頭してきた有力農民層をも組み込むことによって支配体制の強化を目指したものと捉えている。

古墳時代の人々の生活

 古墳時代は、支配者である豪族と被支配者である民衆とがはっきり分離し、生活のあり方もまた大きく異なるようになった時期といえる。この時代になると豪族は民衆の住む一般の集落から離れた場所に、周りに濠や柵列をめぐらした居館を営むようになった。そこは、首長がマツリゴト、つまり政治を行う場所であり、さらに余剰生産物を蓄える倉庫群が営まれる場所でもあったらしい。これに対し、民衆の住む集落には、環濠などはみられず、複数の竪穴住居や平地住居と1,2棟の高床倉庫などからなる基本単位がいくつか集まって構成されていたらしい。竪穴住居では、5世紀になると朝鮮半島の影響を受けてつくりつけのカマドを伴うようになる。
 古墳時代の前期から中期の初め頃までは、弥生土器の系譜を引く土師器が用いられていたが、中期前半から朝鮮半島の陶質土器の生産技術の影響を受けた硬質で灰色を呈する須恵器の生産が始まり、土師器とともに日常用の土器として用いられた(図28)。
 当時の人々の衣服については人物埴輪からその姿が伺える。男性は衣と乗馬ズボンのような袴、女性は衣とスカート風の裳という上下に分かれたものが一般的であったらしい。
古墳時の人々の信仰
古墳時代の人々にとっても、農耕の祭祀は最も重要視されたものだと考えられる。なかでも、年の始めに豊作を祈る祈年祭や秋の収穫を感謝する新嘗祭は重要なものであったのは違いない。弥生時代の青銅制祭器に変わって、古墳の副葬品にもみられる銅鏡や鉄製の武器、農耕具が重要な祭器となり、5世紀になると、それらの品々の石製模造品や木製の祭具がマツリに用いるようになった。
 人々は、奈良県の三輪山に代表されるような円錐形の整った形の山(神奈備と呼ばれた)高い樹木、巨大な岩(磐座)、絶海の孤島、川の淵などを神の宿る所と考え、祭祀の対象とした。それらの中には、現在も残る神社に繋がるものもある。三輪山を祀る大神神社は三輪山を御神体とし、現在も拝殿のみで本殿はない。玄界灘の孤島の沖ノ島には現在も宗像大社の沖津宮があり、4世紀から9世紀にわたる各時期の豪華な奉献品や大量の祭祀遺物が出土している。日本列島と朝鮮半島を結ぶ海上交通の安全を祈る国家的な祭祀が行われたと考えられている。三重県の伊勢神宮は大王家の祖先神で天照大神を祀る内宮と穀物神たる豊受大神を祀る外宮からなる社であり、建築様式は神明造である。島根県の出雲大社は素戔嗚尊とその子孫である大国主神を祀る社であり、建築様式は大社造である。
 穢れをはらい禊、災いを免れるための祓、鹿の骨を焼いてその割れ目から吉凶を占う太占の法、さらに裁判に際して、熱湯に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽を判断する神判の盟神探湯などの呪術的な風習が行われてた事が「古事記」「日本書紀」の記述から伺うことができる。

古墳の終末期

 6世紀から7世紀初めになると、各地の有力豪族たちが営んでいた前方後円墳の造営が終焉を迎える。各地で時期が共通してのでヤマト政権による強力な規制の結果であろう。この時期、中国では南北の統一を果たし、朝鮮半島に進出する姿勢を示していた。こうした東アジアの国際情勢の大きな変化から、古い豪族連合体制やその象徴である前方後円墳の造営を決別したと思われる。
 前方後円墳の造営が停止されても、古墳自体の造営は100年ほど続いた。考古学では、この時期を古墳時代終末期、この時期の古墳を終末期古墳と呼んでいる。かつて巨大な前方後円墳を営んでいた中央の豪族層は大型の方墳や円墳を営むようになるが、地方でも国造に任じられた一部の有力な豪族らも千葉県の龍角寺岩屋古墳に代表される大型の方墳や円墳を営んだ。
さらに7世紀中頃になると、近畿の大王の墓が八角墳になった。これらは大王にのみの固有のものであり、一般の豪族層を超越した存在であることを示そうとしたものであろう。その後も有力な豪族層の古墳造営は続くが、7世紀終わり近くになると、彼らも顕著な古墳を営まなくなり、大王とその一族である一部の支配者層だけが、伝統的な墳丘墓を持つ古墳を営んでいたらしい。このような変化はまさに国家の形成から律令国家への動きに対応するものだと言える。

  •  箸墓古墳―奈良県桜井市の纏向遺跡の南側にある全長280mの前方後円墳。3世紀中頃から後半の築造。出現期の古墳のなかで最大規模。
  •  西殿塚古墳―奈良県天理市にある全長230mの出現期古墳。箸墓古墳に次ぐ規模である。
  •  黒塚古墳―天理市柳本町にある出現期の前方後円墳。画文帯神獣鏡1面、三角縁神獣鏡33面が出土などをはじめとする多数の鉄製の武器・工具が出土した。
  •     • 浦町茶臼山古墳―岡山県浦間にある全長138mの前方後円墳。出現期では中国地方最大規模を誇る。
  •  石塚山古墳―瀬戸内海の周防灘に面した福岡県京都市にある全長120mの前方後円墳。出現期では九州最大規模を誇る。
  •  大仙陵古墳―百舌鳥古墳群の中心で、大阪府堺市にあり、宮内庁は仁徳天皇陵と指定している。日本最大であり、5世紀頃築造。2~3重の濠、全長486m、高さ35m、円筒埴輪だけでも2万本と推定され、周りには陪塚がある。
  •  ミサンザイ古墳―大阪府堺市にある中期の前方後円墳。全長は約360mで履中天皇の陵墓とされ、全国3位の規模を誇る。
  •   誉田御廟山古墳―大阪府洩野市誉田の古市古墳群の中心であり、全国第2位の規模を持つ。応神天皇陵とされ、全長は約425m。
  •  造山古墳―岡山市高松町にある中期の前方後円墳。全国4位の規模を持ち、吉備の首長の影響力がみれる。
  •  五色塚古墳―神戸市垂水区の明石海峡を望む台地上にある中期の前方後円墳。復元され当時の姿が見られるのが特徴。(図29)
  •  太田天神山古墳―群馬県太田市にある全長210mの前方後円墳。東日本最大規模の前方後円墳で、毛野の大豪族の墓であるとされている。
  •  女狭穂塚古墳―宮崎県西都原市の西都原古墳群の中にあり、全長175mの九州最大の古墳。
  •   稲荷山古墳―埼玉県行田市にある全長120mの中期の前方後円墳であり、ヤマト政権の東国支配を示す稲荷山古墳出土鉄剣が出土した。
  •  江田船山古墳―熊本県玉名郡和水町にあり、ヤマト政権の獲加多支鹵大王と刻まれた江田船山古墳出土鉄刀が出土鉄刀が出土している。
  •  竹原古墳―福岡県宮若市にある後期の円墳。横穴式石室の奥壁に竜・馬・武人・舟・刺羽などを黒・赤の2色で描いた彩色壁画がある。
  •  虎塚古墳―茨城県ひたちなか市の後期の前方後円墳。横穴式石室の壁に白土と赤色顔料で描かれている。
  •   岩橋千塚古墳群―和歌山県和歌山市にある後期の約600基からなる古墳群である。
  •   新沢千塚古墳群―奈良県橿原市にある4世7世紀のにかけて造営され、約600基の古墳群である。
  •  藤ノ木古墳―奈良県斑鳩町の法隆寺の西の丘麓にある後期の円墳。横穴式石室の中には精巧な馬具(図30)、2体の人骨、鏡、玉類ほか金剛製の冠、沓、大帯などが副葬された。
  •  吉見百穴―山腹や台地の縁辺に穴を掘って墓室としたものである横穴墓の典型例。
  •  黒井峯遺跡―群馬県渋川市の集落遺跡。6世紀頃に榛名山の噴火で埋没。8~10棟の建物群のほか田畑の遺構も出土し、畑作経営が行われていることがわかった。
  •  三井寺Ⅰ遺跡―群馬県高崎市にある豪族居館の遺構。この居館は周りに幅30~40mの周濠を巡らし、濠の斜面には葺石のように石がひかれ、濠の内側は2重の柵によって囲まれている。周りには5世紀後半から6世紀初頭にかけて営まれた古墳群存在する。
  •  龍角寺岩屋古墳―千葉県印旛郡栄町にある7世紀築造の終末期古墳。
  •  岡田山1号墳―島根県松江市にある6世紀後半築造の前方後方墳。氏姓制度、部民制を示す岡田山1号墳出土太刀が出土している。
  •  岩戸山古墳―福岡県八女市にあり、筑紫国造磐井の墓とされる。

東アジア諸国との交渉

 中国では三国時代の後、晋が統一したが、4世紀初めに、北方の匈奴をはじめとする諸民族(五胡)の侵入を受けて南に移り、南北朝時代を迎えた。このため、諸民族に対する中国の支配力は弱まり、東アジア諸地域は国家形成へと進んだ。
 中国東北部から興った高句麗は、朝鮮半島北部に領土を広げ、313年には楽浪郡を滅ぼした。 一方、朝鮮半島南部では馬韓・弁韓・辰韓というそれぞれの小国連合が形成されていたが、4世紀には馬韓から百済が、辰韓から新羅が興り、国家を形成した。ただ、弁韓は統一されることはなく、伽耶10と呼ばれる小国連合が5~6世紀まで続いた。
 4世紀後半、高句麗は南下政策を強めると、百済や伽耶諸国と密接な関係にあったヤマト政権はこれらの国とともに高句麗と争うようになった。高句麗の都である丸都(中国吉林省)にある広開土王(好太王)碑の碑文には倭と高句麗との交戦したことが記されている。朝鮮半島から乗馬の風習を学び、5世紀になると日本列島の古墳にも馬具も副葬されるようになる。この間、倭は百済や伽耶から様々な技術を学び、また多くの渡来人が海を渡って、日本列島に多くの技術や文化をもたらした。
 さらに、朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の立場を有利にするため、5世紀初めから約1世紀の間に、讃・珍・済·興・武の5人の倭王(倭の五王)が宋に遣使したことが「宋書」倭国伝に記されている。そのうち済と興と武は允恭天皇とその子である安康と雄略天皇を当てることはほとんど異論はない。讃について応神・仁徳・履中の各天皇を当てる説があり、珍について仁徳・反正を当てる説がある。

大陸文化の受容

 朝鮮半島や中国との交流のなかで、鉄器生産、須恵器の生産、機織り、金銀・金剛・銅などの金属工芸、土木などの技術が、朝鮮半島からやってきた渡来人によって伝えられた。ヤマト政権は彼らを以下のような集団として組織した。
 品部…伴造に従い、それぞれの職能で朝廷に奉仕した。
  •          史部…外交文書・出納などの記録作成。(漢字の使用をもたらす。)
         □ 韓国鍛治部 □陶作部 □錦織部 □鞍作部 
         □土師部    □忌部  □犬養部
     

渡来伝説(どれも応神天皇のときとして物語られる。)

  •       王仁…西文氏の祖-百済の博士。『論語』・『千字文(識字・習字のテキスト)』
  •        阿知使主…東漢氏の祖-文筆に優れる。
  •        弓月君…秦氏の祖-養蚕・機織りを伝える。
513年⋯百済から五経博士が渡来。儒教を伝える。
 医・易・暦の諸博士が渡来。

仏教の伝来

司馬達等(鞍作鳥の祖父)ら渡来人による信仰。
百済の聖明王が欽明天皇に仏像・経典などを伝えたされるが年代は2つの説がある。
→538年(戌牛)説「上宮聖徳法王帝説」「元興寺伽藍縁起
→552年(壬申)説「日本書紀

6世紀半ば「帝紀」…大王の名・続柄・宮の所在・妃と子の名、陵の所在をまとめたもの
      「旧辞」…朝廷に伝えられた説話・伝承が成立。
→後の古事記・日本書紀のもとになったとされる。

日本語表記の始まり

  • 七枝刀…物部氏の氏神だった石上神宮の神宝の刀。「泰和四年」は369年とされる。百済がこの刀を製作し、372年に献上された。百済と倭の友好関係が読める。
  • 埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘…辛亥(471)年に製造。鉄剣の表裏に115文字。ヲワケの祖先オホヒコからヲワケにいたるまでの系譜とヲワケの家が代々杖刀人の首として大王に仕えてきた由来を記す。→ヲワケは武蔵の豪族か、中央からのきた豪族かの2つの説がある。
  • 熊本県江田船山古墳出土鉄刀銘…「書くものは張安也」と記されており、文字記述は渡来人に担われていたことがわかる。
  • →両方の遺物に「ワカタケル大王」と読める漢字の音が当てられている。→日本書紀の「大泊瀬幼武」の記述と一致、ワカタケル大王は雄略天皇=倭王武と考えられる。
その他

  • 隅田八幡神社人物画像鏡… 和歌山県隅田八幡神社所蔵の日本製青銅鏡。鏡背に48字の金石文が彫られてる。

ヤマト政権と政治制度

5~6世紀ごろ…氏姓制度が確立。
…ヤマト政権が生み出した政治・社会組織であり、支配者層に特有の集団。直系、傍系の血縁者、非血縁者の家が所属。
氏上…氏の代表で、氏人を統率、氏神を祭り、集団でヤマト政権に奉仕する。
…大王が氏に与えるもので政治的地位や職掌に基づく。起原は、人名に付属した彦・君・宿禰・別などの尊称。
    • …大王から分かれたとされる皇別氏族の姓。地名を氏の名とする。(蘇我臣・葛城臣・平群臣・出雲臣・吉備臣・和邇臣・巨勢臣など)
        ◦ 大臣…臣の有力者。国政担当。(蘇我氏・平群氏など)
    • 連…大王家とは祖先が異なるとされる。特定の職能の名を持ち、伴を率いて仕えた。(中臣連・忌部連)→祭祀 (物部連・大伴連)→軍事 (土師連)
        ◦ 大連…連の最有力者。(物部氏・大伴氏など)
    • …筑紫や毛野などの地方有力豪族。
    • …5~6世紀に服属した国造に統一的に与えられた姓。(凡河内など)
    • …品部・子代・名代の主張に与えれる。
    • …地方の首長。・史、村主…渡来人の子孫。

伴造︰世襲的職業で朝廷に奉仕する団体を伴と言い、その首長を伴造と言う。
品部︰伴造に従い、それぞれの職能で朝廷に奉仕する部。

地方支配

  • 国造…ヤマトの地方官で、多くは地方豪族。地方支配を認めて貰う代わりに、ヤマト政権に子弟である舎人・靫負、子女である采女を出仕させたり、屯倉の管理、軍事的奉仕をする。
  • 稲置︰国造の下で地方支配。
  • 県主…朝廷の直轄領または北部九州などの要地に設けられた小域を県と言い、そこを支配する地方官。

  • 田荘︰豪族の私有地。豪族は部曲と呼ばれる私有民を有し、経済的、軍人的基盤とした。また奴(奴婢)と呼ばれる隷属民を有し、労役に使用。(ex︰蘇我氏の蘇我部、大伴氏の大伴部など)
  • 屯倉︰大王家の直轄領。名代・子代の部という直轄民を有する。屯倉周辺の農民を田部として徴発し、徭役労働させることもあった。(ex︰春日部・額田部など)

島根県岡田山1号墳出土太刀

島根県岡田山1号墳から出土した太刀。太刀には「額田部臣」の銘文があり、6世紀には、氏姓制度、部民制が進んでいたことを示している。

コメント