このブログの説明

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本ブログ名の「かもしかみち」は藤森栄一の「かもしかみち」から引用しました。そして藤森栄一は古道という著書にて以下の事を記した。「私はかつて、そうした道*(ここでは古道を指す)を懸命に追ったことがある。その時の成果は、「かもしかみち」という長篇にまとまった。しかし、力が及ばなかったこと、書き足りなかったことが多かった。いつかきっと、日本の古道を徹底的に追い詰めてみようと願った。」と。私は「知の欲望に従って、追い求める原動力」そうした意味をかもしかみちから感じ取った。故に私は本ブログにおいてかもしかみちという言葉を用いたのである。話は変わり、本ブログでは私の長い小言を書く場所と使用いたします。

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これからの古代日本史との出会い

日本史との出会い

昔から、古い物に興味があったのではないかと今になっては、物心つく頃から電車より、前時代的な機関車の方が好きだったし、古い未知性が含まれるいや、正確に言えば知られていない物に興味があった。
しかし最も、今の自分に対して影響している出会いは恐らく、小4の夏休みの出来事だろう。
その年の夏、私は父親から角川の学習まんが「日本の歴史」を貰った。それ以来、私は日本史に没頭した。
それは読んだ当初に思った、「全巻読破したら中国も学ぼう」という志を忘れてします程であった。私は夏休みを終えても日本史に熱中した。
まずは小学校の図書室にある学習まんがを徹底的に滅ぼした。絵の新しいまんがだけではなく、古いまんがも含め全て読み切った。
らく読み切らなかったのは当時貸出で人気だった「はだしのゲン」のみだっただと思う。
確か小4を終えるころには既に’’日本史が好きな人’’として身の回りに周知されていた気がする。

小学生の私に与えた常識

当時、自主学習という自主的に出す宿題があったのを覚えている。
基本的に私の知識はここに書き残された。
そこに小学生の私が最も多く登場するのは、やはり源平の動乱か、戦国時代のことである。
前者小4の時、後者は小5の時にハマった事をよく覚えている。
しかし、このようなコアな知識なものは全くの評価に値しない、これは今でも忌みしき事であると思っているし、淘汰される物と思ってる。
だが、私は己の好奇心と探求心を残す場として、娯楽として書き続けていた。
主に書いた事は特定の人物についての年表や日本の歴史をひたすら書き続けることである。
これらの知識は主にネットや家にある本で調べまとめ上げたのが、当時として知られていない、富士山噴火の危険性や当時の年齢では難しいマチュピチュの事についてなどかなりマニアックの事も記述している。
今でこれはかなり高度な事を記述しいて、その当時のノート今でも保管していればと若干の後悔をしている。
このような私の自主学習は基本的に担任から注目に値するものではなく、単純で実学的な事しか評価されない事を妬む存在であったのだが、一つだけ注目される値になったことがある、それは 旧国名、所謂五畿七道の名を都道府ん県ごとに書き記したことものである。
当時、どの本にも載っている一般的な事をただ連ねてみただけだったがその先生にはとても稀有な物珍しさを覚えたらしい。
私は特に何も思わず、先生に不思議感を覚えた。
今を見て考えても、高校で全部覚える事なのでなぜ知らぬかは不思議である。

小学生の知識段階の発展、外のでの発展

私が、日本史に浸かる事ができたのは、もちろん自分自身の事が一番の故であると思うが、もう一つに環境が大きな影響をもたらしていると思う。
小さい頃から、よく父親に上野博物館やその他色々の博物館に連れていって貰った事があるし、祖父からよく本など貰ったなりなどもしていた。
現在自分の本棚にあるおよそ110冊程度の雑誌こと「再現日本史」や121冊の「日本の神社」もその一つである。
又、大河ドラマもよく見ていた。
はっきりと自分の意志で見始めたのは、2017年の「女城主井伊直虎」だけれども、昔の写真(およそ4歳)には、時代劇を見ている私が写っている。
ひじょうに奇妙なことだある。
小学生5年から6年かけて、私は文字のみ本、いわゆる学術書も手中におさめた。
特に戦国時代の本を多く漁ったのをおぼえている。
学術書とは言えないが、小学校の図書室にあった偉人の伝記シリーズの本が特に印象に残っている。
これは、私の人生観に大きな跡を残してくれている。
読んだのは確か、ファーブル、イエスキリスト、福沢諭吉、坂本龍馬がいんしょうてきである。
どれもこれも私に実体験を小説にしたの如く訴えてくてれ、どれもいみじゅうあわれであった。
時間に恐怖を持たず読書できる時間がまたいつか欲しい。









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