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関東の古墳
一 はじめに
本論ではおもに関東の古墳の編年について述べる。弥生時代以降、日本の中心は畿内、北九州に偏る傾向があるが、縄文時代では関東は人口の中心地であり、それは豊富な海の恵があったからであると思う。では古墳時代においてはどうだったのか。私は関東の古墳時代は北部九州に並ぶ日本の経済圏での中枢であったと考えている。それは古墳の数や大きさが裏づけている。例えば、群馬県の太田天神山古墳は畿内を除外すると、一番の規模を持つ古墳であり、数においてでは千葉県が四位に君臨する。このことから、古墳時代においての関東の立ち位置は非常に重要であった事が推察できる。
我が国には、多くの神社がある。その神社は個々に由緒というものを持っている。例えば、私の出身地の千葉県には、安房神社という神社がある。その創建神話にはこのような由緒がある。
古代史の特徴としては、歴史的史料が限定されている事が挙げられる。だからこそ、この時代の研究には、様々の分野の知見を生かす必要がある。その中でも今回は関東の古墳の編年を取り挙げる。関東の古墳の時代ごと変容を知ることで、関東とヤマト政権との関係が見えてくると考える。以上により、今回私は関東を中心に論じる。
二 古墳について考える前に
古墳が誕生する前、畿内では大きな動揺を迎える。銅鐸祭祀の消滅、第二次高地性集落、纏向遺跡の出現がその代表例である。このような変容は必然的にヤマト政権成立に大きく関わっていると思われる。古墳について考える前に、その概要を紹介する。
三 青銅祭具の世界
古墳誕生以前の畿内には、九州を中心に発掘される銅剣・銅戈・銅鉾に対して、銅鐸が主に出土する。その銅鐸は、弥生後期にかけて巨大化し、古墳の誕生と同時に突如としてその姿を見せなくなる。それに対して、小林行雄氏は銅剣・銅鉾文化圏と銅鐸文化圏の発生時期から二大文化圏の対立を否定している。小林氏は銅鐸文化圏の発達を西日本全体に広がっていた銅剣・銅鉾文化圏が、畿内勢力が強くなるにつれて、銅剣・銅鉾を鋳つぶし、弥生後期頃に銅鐸文化圏を発達させたのだと考えた。銅鐸文化圏が突如として消滅した原因も北九州の侵入ではなく、社会構造の変化とした。それは共同体の農業祭祀の象徴であった銅鐸はムラ同士の合併により、一つの首長に祭器が集合し、埋められた。その銅鐸もヤマト政権という巨大な権力の確立より不必要になったのだと説明した。しかし、この説は北九州と畿内との間の連続性についての説明は不十分であった。
そもそも、銅鐸とはなんであったのかを考える必要がある。藤森栄一氏の「銅鐸」(雄山閣 二〇二二年)から紹介したい。藤森氏は、銅鐸絵画を秋の風景だと解釈した。銅鐸の上の方はトンボで空を表現し、空からの雨は渦となる川となり、川辺には鹿が遊ぶ。里近くには高床倉庫があり、四角区切りは水田を表し、そこには水鳥がいる。川は海に至る。そこには魚が描かれている。また藤森氏は銅鐸を諏訪地方にある鉄鐸と結びつけた。まず、藤森氏は鉄鐸と思われる史料から、鉄鐸を契約締結時、または土地神に秋の稔りを約束をする際に鳴らして用いられる祭具とした。そこから鉄鐸を銅鐸が「見る銅鐸」に発展する前に分化したものであると位置づけた。また彼は、銅鐸の役割を水とその土地についての祭具と考えた。銅鐸消滅の原因についても「古語拾遺」の天鈿女の話を引用した。そこから藤森氏は、忌部氏が後退し、祭祀の中心が中臣氏に移行したからだと考えた。その銅鐸は卑弥呼共立と共に一気に全国で埋められたのだと彼は説明した。しかし、銅鐸圏の端である諏訪地方においてでは銅鐸祭祀が残存し、祭具の鉄鐸として伝承されたものであると考えた。
この著は私が諏訪市博物館にて勧められたものだが、十六歳の私にとってこの話は非常にロマンティックであった。私としては、鉄鐸がいつ頃から用いられたのかの確証がないため、銅鐸との連続性はこれからも論議を重ねることが必要だと感じているが、銅鐸の役割は農業的祭祀であることは間違いないだろう。銅鐸は共同体においての祭祀で用いられ、既に王権体制が確立し、武器製品が権力の象徴であった北九州では普及されなかったと考えている。地域性が文化性を分けたと考える事ができる。
平成以降、吉野ヶ里遺跡の銅鐸の鋳型の発見などの考古学の成果により、この論はより発展的に論じらるようになった。
ここからは寺沢薫氏の「王権誕生」(講談社 二〇〇九年)から青銅祭具についてアプローチしたい。寺沢氏は、北部九州で前二世紀後半に始まった青銅の{マツリ}を第一段階とし、第一段階は武器系の青銅器と銅鐸の共存であったと説明している。。そこから第二段階(前一世紀~一世紀半)にかけて、青銅のマツリはそれぞれの地域の政治状況や社会構造に応じて、独自のシンボルを掲げたものだと論じた。北部九州では、戦争性が強い青銅武器を、瀬戸内や山陰地方では銅鐸圏としての祭祀形態をとったのである。山陰特有の中細形銅剣Cと呼ばれるものや、西・中部瀬戸内に分布する平型銅剣は、第二段階にて、各地域が独自性を持とうとしたシンボルだとしてその仮説を裏付けている。また、寺沢氏は出雲の青銅の大量埋葬に対して、呪禁的役割があったのではないかとも論じている。
四 高地性集落
前期古墳の誕生の前にいわゆる倭国大乱がある。魏志倭人伝にはその大乱について詳細な記載はされていないが、三世紀後半に前期古墳が誕生することからも、社会的変容があったのは事実であったのだろう。その部分も引き続き寺沢氏の「王権誕生」から概要を引用させて頂きたいと思います。寺沢氏は高地性集落は三段階あると考えた。第一次は前一世紀から後半から一世紀前半にかけて、瀬戸内中心に出現し、それを北部九州に対しての軍事的緊張と考えた。第二次になると第一次に比べて高地性集落は減少し、図⑷のように、より広範囲に広がっている。この第二次の高地性集落の時期は二世紀後半であり、この当時は各地域で墳丘墓の巨大化、近畿、東海での銅鐸の巨大化などの変化が起きている。このことから、各地域で北部九州からの独立化が見られる。第三次は高地性集落はより減少し、東海、北陸、中国西部に集中する。第三次は三世紀前半から後半にかけての時期であり、これは卑弥呼の共立、纏向遺跡の誕生の後であり、それらの勢力に対抗する目的で出現したと考えた。
五 纏向遺跡と古墳
纏向遺跡は第二次高地性集落が築かれていた三世紀初め頃に、突如として出現した。また時を同じくして、ホケノ山や石塚などの前方後円墳が誕生する。吉備の楯築墳丘墓 に形が似ているのに加え、神話の影響力や、造山古墳などから、纏向遺跡で誕生した政権は吉備からの影響を強く受けていたことが見受けられる。前方後円墳が、その後、全国へ広がることや、記紀に登場する崇神天皇の宮が三輪付近に置かれたことからも、纏向で誕生した政権は、いわゆるヤマト政権であったのであろう。
私は、初期のヤマト政権の王の役割は、恐らく、水を司る者であったと考えている。水を司ることは、必然的に農業と結びつけられ、農業の治水工事を扇動する立場にある。これは、共同体での銅鐸の役割であったものを地域統合の象徴であるヤマト政権の王という個人に引き継いたためであると思われる。実際に古墳は、墳丘墓という側面の他に川辺に築かれる事から、治水という側面も考えられるし、纏向遺跡からは、導水施設が見つかっている。この事から、初期のヤマト政権は治水を行う事で、農業を促進し、全国規模に勢力を広げたのではないかと考えている。
六 纏向型前方後円墳の広がり
寺沢氏は箸墓古墳などを代表する。形を定型表し、それに比べて前方部が未発達な古墳を纏向前方後円墳と表した。また纏向型前方後円墳は図⑸のように全国各地で局所的に見られる。東は福島から、西は宮崎にも見受けられる。三世紀中盤において、ヤマト政権がこれら一帯を全て支配していたとは到底考えにくい。これはが示すのはヤマト政権は、地理的重要な地である瀬戸内沿岸、東海道沿岸の豪族を自分の政権下に置くことで敵対勢力より有利な立場に立とうとした結果だと考える。
一説には、前方後方墳は濃尾平野で生まれたものであると考えられ、関東では前方後方墳が先行する。しかし、前方後円墳と前方後方墳が同時期に出現する地域も多い。このように地域によって前方後円墳と前方後方墳の発生の割合に差があるのは、ヤマト政権の確立の際、ヤマト政権と東海地方連合の経済的対立があり、各地方の豪族を自勢力への引き込もうとする対立があったのではないかと考えている。纏向型前方後円墳が全国に局所的にみられるのはこのような所以があると思う。
七 関東の地方古墳を見る
関東の古墳の出現には、三章から六章までの畿内の動揺を背景として入れなければならない。
このような三世紀の西日本の激動な変化により、ようやく関東に大きな勢力をもたらすのである。古墳の出現には西日本の関東への進出、または在地勢力がヤマト政権下の一員となることでの勢力を拡大したからであろう。
飛鳥時代になるまで、時の天皇は有力豪族によって決められていた。つまり、天皇は当時の有力な豪族の支持があっての上で即位するのである。当時の天皇の支持基盤は多くの人が論じているように、皇族の古墳の場所で推察できる。
では、関東ではどうだったのだろうか。もし豪族の支持基盤が変わるのであれば、同様に地方での支持基盤は変わるはずである。ここからはその中でも関東の古墳の変容を見て論じたいと思う。
八 濃尾平野を見る
六章で論じたように、前方後方墳は、濃尾平野で誕生し、それは関東に広がった。つまり、濃尾平野の古墳の変化は、関東に強く連動すると考えられる。
濃尾平野の古墳の編年は図のようになる。全体的に見ると、ヤマトが前方後円墳を確立したのとほぼ同時期に濃尾平野では前方後方墳が築かれてることがわかる。前方後方墳は四世紀中盤あたりで前方後円墳に変わりはじめる。そして五世紀中頃にかけて、前方後円墳の中心は、庄内川中流域、名古屋台地に移動し、断夫山のような巨大前方後円墳が築かれる。
このような編年から、前方後方墳は、三世紀から四世紀中盤にかけて栄え、四世紀中頃に、ヤマト政権下に組み込まれたことが考えられる。六世紀中盤かけての出来事は、記紀での継体王朝の擁立と重なり、このような出来事はヤマト政権内での支持基盤の移り変わりが関係していると思われる。
変化後に中心となる名古屋台地には、熱田神宮があり、天皇家との関わりが強い。日本武尊の東征神話によれば、健稲種命は日本武尊の東征に随行したと言われている。健稲種命は尾張国造の遠祖であり、名古屋台地に政権を支える重要な豪族がいたのは間違えないと思う。
九 相模の古墳
弥生以降、相模においても、東海地方への影響を強く受けている事が見受けられる。神崎遺跡では、在地の土器がほとんど出土せず、東海地方の土器が多く出土することから、東海地方からの多くの移民が来たのではないかと考えらている。
相模は関東の中でも最も少なく五百基程度しかない。しかし、図⑸で判るように秋葉山三号墳は纏向型前方後円墳である。図⑺においてはこの古墳は五世紀に分類されてるが、海老名市のホームページによると、この古墳は三世紀から四世紀に分類される。つまり、前方後方墳の秋葉山四号墳と同時期か、それよりも早期の可能性がある。また古墳は、相模川水系に集中しており、真土大塚山からは、三角縁神獣鏡が出土している。このことから、三世紀から四世紀にかけて相模では東海系と畿内系の勢力の葛藤があったと考えられる。
このちに纏向型前方後円墳がみられる原因は地理的特徴としてであろう。東には千葉県の神門古墳群があり、それとの繋がりも考えられる。このことから、相模の東海勢力は畿内の勢力下に入ったことが考えられることである。
その後の相模の古墳は、あまり大きな特異性は見られない。六世紀頃に横穴式石室がつくられ、前方後円墳は七世紀に姿を消し、群衆墳がつくられるようになる。それに加え、古墳は、山間部にもつくられるようになり、集落も山間部へ進出する。このことから、開拓長的な人々までにも古墳が作られたことを意味している。
十 武蔵の古墳
現在の東京都の部分を見ていくと、多摩川下流域で早くも前方後円墳が現れる。蓬莱山古墳である。この古墳は図では五世紀初頭に組み込まれているが、「東京都の歴史 山川出版社 一九九七年」によると、四世紀前半に遡る可能性があると記載されている。蓬莱山古墳に遅れて、多摩川流域には白山古墳が現れるのだが、その古墳からは三角縁神獣鏡が出土している。そのことから多摩川流域では早くも四世紀前半頃には、ヤマト政権下に組み込まれたと考えられる。
多摩川流域の外の地域に目を向けると、おおよそは相模と同じく四世紀に前方後方墳が出現、四世紀後半に前方後円墳のが出現する傾向が見られる。
五世紀の古墳を見ると古墳は主に比企地方や児玉地方に集中している。後に巨大古墳が現れる埼玉地方は空白地帯であることが非常に興味深い。四世紀後半から五世紀の中頃までの古墳は呪術的側面を強く残しており、この地域の首長は武力的権威だけではなく、宗教的な権威も保有していたと思われる。
五世紀後半古墳の中心は埼玉地方に移動し、巨大化する。注目したいことは、四世紀から五世紀中盤にかけて、多く古墳が築かれた多摩川流域、児玉、比企地方の古墳が依然として築かれ続けることにある。しかしながら、古墳は小規模化しており、勢力の衰退が見受けられる。このような動向から考えれるのは新勢力の勃興であると考えられる。そのヒントは武蔵の国造の乱の経過から推察できるのではないかと考えている。
「東京都の歴史 山川出版社 一九九七年」と「埼玉県の歴史 山川出版社 一九九九年」を参考にして紹介する。これによると武蔵には二つの国造が置かれたとある。一つが无邪志国造でもう一つが知々夫国造である。どちらも現在も使われる地名を有する事から、前者が東京都から埼玉県東部にかけて、後者が現在の秩父地方を有していたと想像できる。
「日本書紀」の安閑天皇元年に、武蔵の国造について以下のような記事がある。
武蔵の国造笠原直使主と同族小杵が互いに国造職を争っていた。小杵は上毛野君小熊に救援を求め、国造職を奪おうとした。そのことを知った使主は逃げ出して、都に詣でてその経緯を訴えた。朝廷は使主を武蔵国造とし、小杵を討伐し、内紛をおさめた。国造となった使主はそのお礼に横渟・橘花・大氷・倉樔の四ケ所を屯倉として献上した。これが武蔵の国造の乱の詳細である。
この記事委から判ることは、ヤマト政権の軍事力を地方に示した出来事であるということである。これにより武蔵では首長の勢力は減衰したと見られる。
このような事から私は、中央との関係がより深い勢力、つまり軍事力として直接奉仕をしている勢力が埼玉地方で勢力を拡大したのではないかと考えている。そのような勢力が埋葬されていた代表例が稲荷山古墳である。稲荷山古墳鉄剣銘については多くの人が考察しており、そのため詳細は省かせていただくが、私はこの古墳の埋葬者は東国出身の豪族だと考えている。一番大事なのは埋葬者の役職であり、鉄剣には杖刀人だと記載されている。このことから、呪術的にまとめていた首長から、中央に直接奉仕する武人というヤマト政権の直接支配的要素が強まっているように思える。
五世紀末から六世紀の巨大古墳の世紀が終わり、七世紀になると、他の地方と同様に古墳は小規模化し、群衆墳の時代となる。この時期は遺跡が低地にも進出するようになっていることから、関東全体で農業が普及し、人口増加、それに伴う開拓が頻繁に行われるようになったのだろう。ヤマト政権内の地盤の安定化により、首長の力は抑えら、関東では安定した時代を迎え、群衆墳の被葬者には、各地方の村々を直接統括した人が埋葬されているのだろうと思われる。
十一 下総・上総の古墳
下総・上総の古墳は他の関東地域と比べても非常に面白い立ち位置を持っている。北部には最古級の神社と言われる香取神宮があり、南部の安房には、東征神話が伝承している安房神社がある。それに加え、東部沖には黒潮が流れており、畿内からの移民神話が伝わっている。古代の海路において重要な立ち位置であったのは明確であろう。
他の関東の地域より圧倒的早く、上総では古墳が誕生する。三世紀中頃であり、その上、前方後円墳と前方後方墳は同時期に誕生する。特に注目すべきなのは、神門古墳群であり、この古墳は、寺沢氏のいう「纏向型古墳」の様相を持っている。つまり、この古墳群の被葬者は中央と強い繋がりあったことが伺える。しかしながら、関東では上総の地域が突出して、早期に古墳が築かれている。古墳の概要を見ると、近畿系、東海系の土器、副葬品には南関東では見られない木工具などが出土している。つまり、この古墳群の特徴は、外部からの影響を強く持ち、畿内だけではなく、東海との関わりも強く持っていることである。恐らく、被葬者はどちらの勢力とも関係を持つ在地首長であり、東海道沿岸での貿易で勢力を伸ばしたと考えられる。上総は東海道の終点であり、そのような地理的条件から、神門古墳群は誕生したと思える。
他の地域と同様、四世紀中盤にかけて、前方後方墳は消滅する。それと同時期に古墳は太平洋側にも見受けられるようになる。東京湾側では古墳の巨大化も見られる。このようなことから、四世紀中盤の時期に、下総・上総全体がヤマト政権下に組み込まれたと考えることができる。
五世紀に入ると、古墳の巨大化は一層顕著となる。特に東京湾側の古墳はその傾向が強い。それに対して、太平洋、利根川側にある古墳は三之分目古墳を除いて巨大古墳が見受けられない時期である。しかし、三之分目古墳の出現には、違和感を感じる。利根川沿いの堤防に築かれているのに加え、北には鹿島神宮、上流には香取神宮があることから、この古墳被葬者は関所的な役割を担っていて、中央の直接的な関わりがあったのではないかと思う。巨大古墳が少ない地域で中央との関わりが想起される巨大古墳が築かれるのはおかしい。
五世紀の古墳が東京湾側で花を咲かせるのに対し、太平洋側では空白地帯である。これは立地的問題だと思われる。当時の交通ルートは相模の浦賀から船で渡り上総に入っていた。古墳成立期においてもこのような航路が取られていたと思われる。そのため古墳が侵入する経路においても東京湾が先行する。当時の航海技術というものは手漕ぎであり、波に逆らうのは困難であっただろう。ゆえにいくら古代人が黒潮を用いて航海をしていたといっても、それは安房沖までの話しである。それ以北は黒潮の流れが、より沖側に流れており、そのような危険から、太平洋側では大きな勢力が芽生えなかったのではないかと考えている。また、関東の古墳を見ると、この時期の古墳は低地ではなく、台地に築かれる。北は低地で、南がリアス海岸である太平洋側では古墳が根付く土壌がなかったのかもしれない。今後も研究の予知があると思われる。
六世紀になると、古墳は安定して多く、巨大な古墳が築かれる。注目すべきことは木戸川流域に巨大な古墳が多く現れることである。この地域は前述したしたように古墳の空白地帯であった。そこに大堤権現古墳を代表する巨大な古墳が見える。円墳が多くあるのも興味深い。これはどうにか物部小事の東征と関連性はないかと考えたが、小事がたどり着いたのは匝瑳郡であり、古墳が多く現れる場所より北寄りである。このことから、両者の関係性について今後の研究の予知があると考える。かつて匝瑳周辺には椿海という湖が存在し、この地域周辺は、今よりも複雑であったのかもしれない。ここで言える事は、太平洋側でも古墳が侵入し、根付いたことである。その中心が、完全な空白地帯であった木戸川流域であるのが非常に面白い。ここに古墳を築いた者たちは、恐らく物部小事のような中央の人物であったのではないかと思う。この時期から中央は、太平洋での海路を見出したのかもしれない。
七世紀にはいると、他の地域と同様に古墳は小規模化、方墳に移行する。しかしながら、他の地域と比べて、その方墳は巨大である。同程度の大きさの古墳は上野においてでしか、関東では見られない。駄ノ塚古墳を見ると、須恵器が畿内と共通する特徴を持っている。その他の特徴と言えば、五体の人骨、鉄鏃、太刀、馬具などが出土している。このことから、被葬者は在地首長であり、畿内との関わりを持っていたことが伺える。またその被葬者の役割とは、馬に関する事、海運に関する事で、畿内との関わりを持っていたと思われる。
十二 常陸の古墳
常陸国には、鹿島神宮などが鎮座しており、古代から重要な場所であったことが伺える。後述するが、この地域では、ヤマトタケルの東征神話が多くあり、これは、中央からの侵攻があったことをがわかる。
常陸での古墳の特徴は、四世紀末になるまで古墳がほとんど現れないことにある。それに加え、前方後方墳が小規模かつ、前方後円墳の移行も顕著に見られない。しかし、古墳の誕生以前の土器での流入においては他の関東地域、東海地方、東北地方との交流が見受けられるので、常陸では、四世紀末になるまで中央との関係が薄く、大きな地方豪族が出現する地盤がなかったかもしれない。
四世紀末になってようやく常陸では古墳が出現する。古墳の出現地は、常陸国内の全体的広がり、河川の河口を見下ろすような高台に多く築造されている。五世紀中頃になると、舟塚山のような巨大古墳が見られるようになる。六世紀以降になると、鹿行を除いて前方後円墳は減少する。逆に、鹿行では七世紀初頭まで前方後円墳が見受けられる。また、六世紀から、埴輪が配置されるようになることから、常陸の工業力の発展が伺える。工業力の発展は埴輪製作遺跡が各地に見られる事からも想像できる。そして、七世紀になると、前方後円墳から方墳へ移行し、やがて古墳の築造は武者塚で終わりを迎える。
常陸沿岸においては、大洗磯前神社が代表的な例だが、この地域には磯を神聖視する。それは先祖が行ってきた海を祀るものである。このようなマツリは常陸においては、海洋からきた者が古墳の文化を伝えたのかと考えることができる。常陸においてこのような古墳の編年は、常陸の祭祀に関係していると思われる。
十三 毛野の古墳
上野国と下野国を合わせて毛野という。特に上野の古墳では東日本で最大の古墳である太田天神山古墳が存在する。この規模の古墳は畿内以外では類を見ないことから、いかに上野の勢力が巨大であったことが推察できる。
他の地域と等しく、四世紀前半に古墳が出現し、前方後方墳が先行する。大きな違いと言えばその規模が巨大なことである。このことは、古墳出現時から毛野地域では巨大な勢力が成立していたことを物語っている。先行した前方後方墳は後半になるとその姿を消す。この時期で興味深い古墳は、前橋天神山古墳である。この古墳は前方後円墳であり、大規模古墳でもある。棺からは三角縁神獣鏡が出土している。このことから、畿内との強い関わりも伺える。一方、下野の方では、前方後方墳の広がりが広範囲である。上野地域では、前方後方墳と同時期に前方後円墳が併存するのに対し、下野では前方後円墳は渡良瀬側流域を除いて、前方後方墳のみが築かれる。古墳の数も上野に比べて劣る。上野に比べては、より東海地方の特色を残した地域であるといえる。
五世紀から六世紀にかけて、上野の古墳は最盛期を迎える。それに反して
下野では古墳の数が減少し、空白地帯となる。しかし、この空白地帯にも田川流域では大規模な古墳は築かれる。笹塚古墳である。「栃木県の歴史 山川出版社一九九八年」よれば、この古墳は以前の下野の古墳の性格とは違う。低地に築かれ、埴輪祭祀を採用し、広域的なネットワークを持つ世俗的な王者であると評価している。このような被葬者の性格の変化が古墳の減少に関係していると述べている。下野でも六世紀になると古墳が見られるようになる。古墳が築かれる位置も南下し思川流域に多くみられる。同時期の上野には及ばないが、武蔵と比べれば、非常に大規模である。
五世紀以前の上野では利根川とその支流付近に古墳が築造されてきた。しかし、五世紀入ると、川の沿岸ではなく、利根川と渡良瀬川の間に古墳が築かれる。それが最初に記載した太田天神山古墳である。この古墳は東日本最大規模であり、他の古墳を大きさで圧倒している。またこの古墳は長持形石棺を持っており、これは近畿地方のものと似ている。そのことから上野では、上野一帯を支配し、政権と強い関わりを持つ強力な首長が誕生したと考えられる。六世紀に入ると古墳は依然として大規模であるが、卓越した古墳は見られず、一〇〇メートル級の古墳が多くつくられる。巨大なまとまりを失った上野であるが、それでも他の地域とは劣らない高い経済力を保有していたと思われる。
七世紀に入るとやはり、他の関東と同様前方後円墳は消滅し、円墳と方墳、群衆墳の時代に入る。総社周辺の宝塔山古墳は方墳である。この古墳は巧みな石材加工技術が見られ、七世紀になっても上野の首長が政権下において重要な立ち位置であったことは間違いないであろう。恐らく中央の技術者によりこのような石室は築かれたと思う。
十四 総論
この時期の特徴をまとめると以下のこととなる。
一、どの地域も弥生時代は東海地方の色が強い傾向がある。
二、前方後方墳が先行する。
三、四世紀中盤から、後半にかけて、前方後方墳消滅。前方後円墳に移行する。
四、一部の地域では政権が成立と同時期に前方後円墳がみられる。
五、太平洋側での前方後円墳は小規模な傾向が強く、出現は四世紀末である。
六、武蔵においては勢力の変容が見え、他の地域では大きな勢力移動が見えない。
七、六世紀まで前方後円墳がつくられ、七世紀に小規模化する。
八、六世紀以降、濃尾では古墳の中心が名古屋台地へ移る。
以上を考慮して簡単な年表を作ると次のようになる。
表 : 筆者作成 中央と濃尾と関東の年表の概要
十五 編年のまとめ
三世紀以前の関東を見ると、共通して東海地方の影響を強く受けている。それは東日本において一番発達していた地域が東海地方であったからであろうと考える。図⑷を見ると、日本海側では、出雲系の四隅突出型墳丘墓、太平洋側では三遠式銅鐸が独自シンボルとして見られる。このことからも東海地方において地域としての連合体の意識が既にあったように見れる。しかしながら、注意しておきたいのは東海地方の勢力は独自の交易路を東方にしか持っていないことにある。図⑷において、熊野周辺に高地性集落が見当たらないことがそれを示している。そのため東海地方の勢力は一度、伊勢から近畿を通過して瀬戸内海へアクセスする必要がある。つまり、もし北部九州から鉄を入手したいならば、一度近畿式銅鐸の勢力を通過しなければならず、通過時にコストを要さなければならなかったのであろう。ゆえに東海地方の勢力は東方へ航路を見出し、関東への移住、交易をもたらしたのだと考えられる。
三世紀前半から中盤にかけて、畿内の巻向にて纏向遺跡が誕生する。この地は瀬戸内航路、東海航路の中心地であり、まさに交易の中心地に相応しい場所である。このような時代背景に出現するのが、纏向型前方後円墳である。この纏向型前方円墳は図⑸のように畿内を中心として瀬戸内、北部九州、東海の一部、北陸の一部に見られる。古墳の数、規模から見て畿内中心の政権であったことは間違いないであろう。この政権は五章で説明した通り、巻向で誕生した政権はヤマト政権である。この政権は畿内を中心とする勢力の連合体あり、その政権は瀬戸内、北部九州の勢力を抑えることで大陸との交易を我が物とした。そして大陸との交易品を地方の豪族に配ることで自身の権力を示した。この時期に関東での出現する纏向型前方後円墳はそのような背景を持っていると考えられる。その例が上総の神門古墳群や相模の秋葉山古墳群である。これらの古墳群は纏向型前方円墳の特徴を持っている。この地に纏向型前方円墳が出現する大きな原因は立地的条件だと思われる。前者の方では東海道の東端にあたり、後者は東京湾入口の一歩手前にある。また神門三号墳からは、東海地方の影響も強く受けており、純粋な畿内の勢力ではないように思える。つまり、神門三号墳の被葬者は在地首長である。これは関東の纏向型前方円墳全体に言える思える。ここから、この時代のヤマト政権による支配は間接的なもの、いやもしくはただの契約関係程度の関わりしかなかったのではないかと考える。
纏向型前方円墳が広がる頃、同時期に濃尾平野では前方後方墳が誕生する。この東海地方による独自のシンボルの旗揚げは近畿地方の経済的独立を意味すると思われる。東海勢力は弥生時代に交流があった東海道沿岸の地域にこの古墳を波及させた。またこの古墳形態は東海だけではなく、日本海沿岸にも見られる。日本海沿岸では一部纏向型前方円墳の分布と重なる地域があり、ヤマト政権対東海連合というよりは、ヤマト政権の中枢対東海連合という政権内の派閥争いのように見える。
しかしながら、四世紀中盤にこの争いは幕を閉じる。濃尾平野において、古墳が前方後円墳に切り替えられたからである。これにより関東の前方後方墳は四世紀末にまでに前方後円墳に移り変わる。濃尾平野ではその後、同地域で引き続き古墳が見られるのでその争いの終焉は平和的なものであったと思われる。
前方後方墳の消滅と同時期に、畿内では大きな変遷が見られる。応神王朝の誕生である。私はこの時期から王朝といってもいいと考えている。それは、この時期からヤマト王権は列島全体の支配を進めるからである。好太王碑の碑文がその最たる例を示している。
関東ではこの時期から前方後円墳の採用、巨大化が見られる。このことから応神王朝は地方の支配を積極的に行い、地方の豪族をまとめ上げたと考えられる。また応神王朝から馬具が出現する。「東国の古墳と古代史」によると延喜式での牧は関東周辺に偏っていることが判る。これは古墳時代でも同様だと考えられる。ゆえに関東は軍事的に重要な地であり、古墳の巨大化の一因もそれにあると思われる。
四世紀末、太平洋側においても古墳が見られるようになる。このことが示すのは航海技術の発展である。今まで東海道沿岸での交流であったのが三浦半島沖で分岐し、太平洋側まで、その交流をもたらしたのである。太平洋側での中枢は香取海である。それは常陸の古墳の分布が示す。図⑿を見ると、香取神宮を中心に川の上流に古墳が点在してるように見える。また太平洋沿岸の地域においてでは、日本武尊の東征神話など、中央から東征神話が多く伝承されている。これが示すのは、ここに前方後円墳を伝えた勢力が初めて太平洋地域に大きな勢力をもたらしたことである。前方後円墳が遅れて且つ、突如として現れるのはそのようなためだと思われる。
五世紀中盤、上野では古墳が振興する。特に目立つのは上野である。この地域では一〇〇m超古墳が多く乱立する時代となり、その繁栄が見られる。それに加え、その後、衰退も見られない。ゆえにこの地域では比較的安定した権力を保持していたことに加え、ヤマト王権と密接な関係を築いてたからこそこのような巨大古墳を長きに渡り築けたのだと思う。恐らくは前述したとおり、軍事関係、馬関係でヤマト王権との関わりを持っていたように考える。それは他の関東地域も同様であると思う。
六世紀に入ると機内では継体王朝へと移行する。それと同時期に東国でも大きな変遷を見せる。濃尾平野においてでは、古墳の中心地の移動が見られる。これは八章でも述べたが、神話が関係していると思う。健稲種命の神話によって示すものは名古屋台地の勢力の軍事的重要性である。この神話により、健稲種命は評価され、濃尾平野において絶対的な力を手に入れた思われる。しかしながら、大垣、岐阜などの古墳の減少は顕著であり、小規模化する現象も見られない程である。継体王朝へ移行する際に旧東海勢力が駆逐されるといった動向が推察される。
同時期に武蔵の国造の乱が発生する。この乱は朝廷により鎮圧され、王権の権威を示した乱だと言える。実際、これ以降多摩川流域の古墳は小規模化する。また、この乱より少し前から埼玉地方に古墳が出現する。これは前述した通り、これが示すのは新興勢力の出現であると言える。しかし、依然として毛野は巨大な勢力を築いおり、他の関東地域でも大きな古墳の変容は見られない。これは、中央との地理的距離感もあるが、一番の原因はそれだけ関東地域が経済的に独立していたからであろう。だからこそ、関東地域はヤマト王権と密接な関係を持てたのだろうと考える。関東での古墳の衰退は七世紀を待たなければならない。
七世紀に入ると古墳は円墳または方墳に移行する。また古墳はより低地へ、より山地に進出する。このことからの被葬者の中心は豪農や開拓長者などの、より下層の人へ普及することを意味している。
十六 終わりに
本稿では、関東の古墳の編年について扱った。関東は中央との動揺に大きく連動していると考え、研究したものだが、実際は全体を通してそれほど大きな変化は見られない。大きな変遷があるといえるのは、三世紀から四世紀末の間であろう。この時期では纏向型前方円墳の誕生、前方後方墳の出現、前方後円墳への移行が順に起きる傾向が関東共通で見られる。それ以降は毛野の古墳の振興、太平洋側での前方後円墳の出現などがある。
このような変遷の中で以下のような疑問が生まれる。
なぜ六世紀に名古屋台地へ移動したのか
なぜ下野では四世紀末まで前方後方墳が見られるのか
なぜ六世紀に木戸川流域で前方後円墳が突如として急増するのか
香取海を中心とする勢力は何か
毛野の勢力の役割とは何か
東征神話との関わりはあるのか
関東の終末期古墳の特徴
以上の疑問を知るにはやはり神話との連動や個々の古墳の特徴、古代の祭祀の特徴を把握しなければならないと考えている。これらを知ることで関東の情勢の変化を知る手掛かりになるのではないかと考えている。最終的には様々な分野での考察を重ね、関東勢力の役割を解明出来れば良いと考えている。
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