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少し長い戯言を書く場です。崇高でも何でもないです。

古代日本史 旧石器・縄文篇(石器時代篇)

原始・古代

 


1章
日本文化のあけぼの
1節 文化のはじまり

日本列島と日本人 

 地球は46億年前に誕生し、人類はおよそ600〜700万年前頃の中新世後期に、ヒトとチンパージの共通の祖先から分岐して、アフリカで誕生したと推定されている。人類は化石人骨の研究によって、猿人(600万〜170万年前)・原人(170万〜4万年前)・旧人(35万〜3万年前)・新人(30万年前以降)の順に出現してきたと考えられている。猿人を代表するのはおよそ420万年前以降にアフリカ大陸の各地で出現したアウストラロピテクスであり、この猿人は現代人の約3分1の脳容量しか持たないが、直立二足歩行を獲得していた。そして、およそ250万年前に猿人から原人に分岐し、石器などの道具を使用し始めた。
 更新世前期に、原人のホモ=エレクトゥスが出現する。原人はアフリカ大陸外に進出しており、ジャワ島東部で発見されたジャワ原人、北京郊外の洞窟から発見された北京原人が代表例である。北京原人の洞窟遺跡からは、多数の動植物の化石、石器、火を使用した痕跡があり、原人の生活、文化が明らかになった。恐らく、言語能力もあったと考えられる。
 35万年前頃、アフリカで人類は旧人へと進化し、その代表例がヨーロッパ近辺で発見されたネアンデルタール人である。彼らは高度な石器を使い、埋葬する習慣もあったともされている。
 30万〜25万年前ごろ、アフリカ大陸で旧人よりも現代人との骨格に近い新人と呼ばれているホモ=サピエンスが現れた。代表的なのが南フランスで発見されたクロマニョン人で、現代人と同じ種に属する人類である。
 人類は地質学でいう新第三紀の中新世の終わり近くから第四紀を通じて発展したが、第四紀はおよそ1万年前を境に更新世と完新世に区分される。更新世は氷河時代とも呼ばれ、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期が交互に繰り返され、氷期には海面が現在と比べると著しく下降していた。この間にいい少なくとも2回、日本列島はアジア大陸北東部と陸続きになり、北方からはマンモスやヘラジカが南下し、南方からは中国の黄土動物群に由来するナウマンゾウとオオツノジカがやってきて北上した。
 人類がアフリカ大陸で石器を使用し始めたのは、およそ260万年前とされ、人類が用いたのは、原石を打ち欠いて刃をつけた打製石器であり、全体を磨いた磨製石器は完新世以降使用が盛んになった。打製石器だけが使われた時代を旧石器時代、磨製石器が加わった時代を新石器時代とよんでいる1。
 アフリカ大陸で誕生した新人が東アジアに到達したのは、およそ5万年前の後期旧石器時代で、日本列島におよそ3万8000年前に渡ってきたとされている。現在において日本列島で発見された旧石器時代の遺跡は1万ヵ所を超えているが、更新世の化石人骨の発見は、静岡県の浜北人や沖縄県の港川人・山下町第一洞人・白保竿根田原洞人などごくわずかである2。

旧石器時代の生活

 かつて、日本列島には旧石器時代がないと考えられていた.しかし、1946年アマチュア考古学者の相沢忠洋(1926〜89)が群馬県の岩宿で更新世に堆積した火山灰の関東ローム層から打製石器を発見したことにより、1949年学術調査が行われた。これが後の岩宿遺跡であり、この調査以後、更新世の地層からの石器の発見が相次ぎ、旧石器時代の文化の存在が明らかになった   
 この時代の人々は、狩猟採集の生活を営み、黒曜石(ガラス質の火山岩)やサヌカイト(安山岩の一種)など鋭利に割れる石から剝ぎ取ったかけら(剥片)を用いて道具を作っていた(図3)。
  1.     打製石斧(局部磨製石斧もある)-大型動物を捕らえるのに用いたり、土を掘るのに用いる。
  2.     ナイフ形石器-大型動物に使用、槍先に付けたり、調理、加工などに用いる。
  3.     尖頭器-ナイフ形石器より後に登場し、同じく槍先に付け、用いる。
  4.     細石器-旧石器時代末期に登場したものであり、細石刃を動物の骨の側縁に組み込み、槍として用いる。日本では北海道で最も発達し、中国東北部からシベリアにかけてみられることから、北海道と大陸の人々は同じ文化圏に属していたと考えられる。(図4)
 細石器文化の後、土器の出現共に、1万3000年前頃に縄文時代に入る。
 旧石器時代の研究は石器中心で行われているが、それ以外からも当時の生活を知ることができる。(図5)
大阪府のはさみ山遺跡からは、地面を円形に掘りくぼめて柱穴をめぐらした住居の跡が発見された。肉などを蒸し焼きにした礫群は各地に発見されている。しかし、縄文時代と比べれば、土地残された生活の痕跡は少なく、この理由は、旧石器時代の人々は定住せず、数十人の集団で移動しながら生活していた為であろう。そのため、住居もテント式の小屋であったり、洞穴を利用することが多かった。
 旧石器時代においても石器材料の交換や分配する仕組みがあったと考えられる。詳しくは縄文時代の欄に記述する。

 縄文文化

氷期が終わり、完新世になると、地球の温暖化に伴い海面が上昇し、日本列島は約1万年前余りほどに、大陸から切り離された。植物相は亜寒帯性・冷温帯性の針葉樹に代わり、東日本はブナ・ナラなどの落葉広葉樹林、西日本はシイ・カシなどの照葉樹林が広がった。動物相に大きな変化があり、ナウマンゾウ・ヘラジカ・ニホンカモシカは更新世までに絶滅し、オオツノジカも縄文時代草創期までに絶滅し、大型獣から動きの速い二ホンシカやイノシシを中心とする小型獣に変化した。このような自然環境に応じて人々の生活も変化し、縄文文化が成立したのである。
 縄文文化の開始はいくつかの技術革新によって特徴づけられている。
  1.  土器の出現-森林の変化に伴い、植物質食料の比重が高まり、その煮沸調理の必要から考案されたものだとされる。
  2. 弓矢の使用-大型動物が絶滅し、素早い小型動物に変化したため、弓矢が使用されたとされる。矢の先端には、軽い石鏃が付けられた。
また、縄文時代に入り、磨製石器が広く普及したことも重要である。
 年代測定法は主に年輪年代法と放射性炭素C14年代測定法などがあり、前者は樹木の年輪を分析する方法であり、後者は生物の体内に含まれる放射性炭素C14の量を測定し生物の死後の年代を測定する方法である。その放射性炭素C14年代測定法によれば土器の出現は約1万2000年前であり、世界的にも古い年代とされ、日本列島は最初に土器を発明した地域の一つと考えられる。
 これらの土器は表面に縄(撚糸)を転がしてつけた縄文と呼ばれる文様をもつものが多いので縄文土器(図6)といわれている。縄文土器は厚手で黒褐色の低温で焼かれたものが多く、深鉢を基本とし各種の形態があり、その形態と文様の変化とともに、縄文時代は草創期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されている。

 縄文人の生活

 縄文人の生業のうち、狩猟の主な獲物はシカとイノシシであり、弓矢のほか、落とし穴を用いて狩猟を行った。約6000年前にピークを迎えた縄文海進の結果、日本の海岸線は入り江に恵まれて、漁労が発達した。人々は、シカの角や骨で作った釣針・銛・やすなどを用いた漁を行い、網も使用した。東日本ではサケ・マスの資源が豊かだった。丸木舟も各地から発見され、ている。伊豆諸島の南端である八丈島では中期の住居跡や墓が残されており、それが鹿児島から沖縄にかけてみられることから当時の人々が高度な外洋航海技術を持っていたことがわかる3。
 海岸地域には多くの貝塚が残されてることが多い。貝殻は1887(明治10)年にアメリカ人動物学者モース(1838~1925)が東京の大森貝塚を調査したのが最初であり、貝塚からは食べかすの貝殻や魚の骨、動物の骨、土器の破片や石器、骨角器が堆積しており、当時の人の生活や自然環境を知る重要な手がかりとなっている 。松島湾に面している里浜貝塚(宮城県)では精密な貝層の分析により、当時の人々の活動の季節的なサイクルと一年のうちに人々がどのくらい食べかすを廃棄したかを明らかにした。また、神奈川県の夏島貝塚では、約8500年前の釣針が発見されている。
 植物採集も重要であり、当時の人々は、クリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどの根菜を主食としていた。石皿とすり石はこれらの木の実をすりつぶすの用いられた。土器は貯蔵容器として、またはアク抜きや煮炊き用として用いられた。また貯蔵穴という木の実など貯蔵するのに使われた穴が各地に発見されている。
 食料が安定的に確保できるようになり縄文時代の人々は、定住的な生活が可能になった。住居は地面を掘りくぼめられ、周囲に土の壁をつくり、その上に屋根をかけた竪穴住居が営まれ、中央には炉があり、調理や暖とれる場所であった。人々は、水場で日当たりの良い台地や尾根上の平らな場所で集落を形成し、集落の中央には広場があり、それを取り囲むように数軒の竪穴住居が環状に並ぶ。これを環状集落という。三内丸山遺跡(青森市)のような大きな集落には、住居のほか貯蔵穴、墓地、ゴミ捨て場などがあり、集会所または共同作業場と考えられる大型の掘立柱建物が発見されている。
 結婚は別の集落の人々と行い、それに伴い情報や物の交換が行われたと考えられ、産地が限定されている黒曜石やサヌカイトは遠方まで運ばれている。また新潟・富山県境の姫川流域に産地が限定される装身具用のヒスイ(硬玉)や接着剤に用いるアスファルト、土器などに着色する赤色顔料なども交易活動などによって持ち運ばれたものだと考えられる(図8)。
 人々は常に自然との脅威と向き合って生活していたため、あらゆる自然物や自然現象に霊威が宿ると考えられ、信仰された。これをアニミズムと呼ぶ。
 また女性をかたどった土偶や男性を表現した石棒などは、共に繫殖や生命力を祈るものだとされ、特に土偶は破損した形で見つかることが多いため、病気や災いを転嫁したものだとも考えられている(図11)。成人の際に行われる抜歯や叉状研歯(図11)の風習などもあり、これはその人の地位を示したものだと考えられている。しかし、個人の富を象徴する多量の副葬品がみられないことから。縄文時代の人々に、貧富、身分の差はみられないと考えられている。
 死者は丁重に扱われ、手足を折り曲げて横たえる屈葬が一般的であった。これは死者の霊が生者に災いをもたらすと恐れていたためだと考えられている(図8)。東日本では墓穴の上に石を
敷いたり並べたりすることが多く、それが発展して石の環となったものを環状列石という。環状列石は、秋田県鹿角市の大湯環状列石が有名である(図10)。北海道では、環状の土手に囲まれた集合墓地があり、環状土籬とよばれている。
 縄文時代は約1万年に渡って緩やかな発展を辿った。総じて東日本では、集落密度が高く、人口も西日本に比べて多かった。と考えられる。しかし、縄文時代後期・晩期となると、気候変動に伴って集落の規模や数は減少に転じた。
  •  三内丸山遺跡(青森)-縄文時代前期から中期までの1500年間渡って営まれた集落である。 中央に道はしり、その東に成人の墓が列をなし、西には倉と考えられる高床の建物が並んでいた。北には子供の遺体や死産児が土器に収められて埋葬した墓地があった。直径1mというクリの大木6本を使った建物は津軽湾を望む物見やぐらのような施設だとすいてされている。ヒスイ玉が示すような遠隔地との交易や一時期数百人の人口規模があったとされることから、この遺跡は従来の縄文時代を覆す重要な遺跡である。
  • 亀ヶ岡遺跡(青森)-晩期の代表的な土器である亀ヶ岡四季土器が出土。
  • 加曾利貝塚(千葉)-国内最大級の貝塚。
  •  尖石遺跡(長野)-原始農耕の跡
  •  大森貝塚(東京)-最初に発見された貝塚。アメリカ人のモースが発見。
  •  大湯環状列石(秋田)-縄文後期の環状列石。
  • 鳥浜貝塚(福井)-丸木舟、ひょうたんの果皮・種子などが出土。

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