このブログの説明

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本ブログ名の「かもしかみち」は藤森栄一の「かもしかみち」から引用しました。そして藤森栄一は古道という著書にて以下の事を記した。「私はかつて、そうした道*(ここでは古道を指す)を懸命に追ったことがある。その時の成果は、「かもしかみち」という長篇にまとまった。しかし、力が及ばなかったこと、書き足りなかったことが多かった。いつかきっと、日本の古道を徹底的に追い詰めてみようと願った。」と。私は「知の欲望に従って、追い求める原動力」そうした意味をかもしかみちから感じ取った。故に私は本ブログにおいてかもしかみちという言葉を用いたのである。話は変わり、本ブログでは私の長い小言を書く場所と使用いたします。

教科書(随時更新)

 

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原始・古代

 

原始とは、新人誕生から、凡そ16万年 の歴史を持ち、出アフリカからでも6万年以上の歴史持ち、人類史の中で最も多く占める歴史区分である。近年、この時代の研究は考古学だけではなく、DNA解析が盛んであり、これにより研究は格段に進歩している。そのため、この時代の教科書の記述は大きく変わることが予想される。今後も順調な研究発展を期待したい。

 人類の最初の冒険は出アフリカに始まる。そして、2万年の旅の末、我が祖先は、極東の地に到達する。実に4万年前のことである。

 完新世に入ると、永く続いていた氷河期の終わりが告げられ、日本列島にすまう人々は独自の文化を更盛する。縄文文化である。一番の特徴としては、農耕牧畜がないことである。大陸においては農耕牧畜の始まりにより定住化、文明へと進歩するが、日本列島においては発展的な農耕無くして、土器が生み出され、定住化、土偶などの文化的特徴を生み出した。

 紀元前1000年頃になると日本列島にも農耕の技術がまいおりてくる。始まりは、満洲周辺にいた農耕民族が朝鮮半島経由で日本列島にやってきたと事が原因だとされている。農耕と伴って出来た弥生文化は、渡来系弥生人によって北部九州から全国へ広がった。縄文系弥生人もこれを受け入れ、数百年をかけて、徐々に混血していき、2世紀頃になると、部族社会から国家への移行、つまり「ムラ」から「クニ」を形成する。3世紀に入ると邪馬台国卑弥呼を初め大きなクニを形成し、それに伴い墳墓の巨大化、つまり、権力が為政者に集中し、血統重視の王権が誕生する。そして、150年の空白期間からヤマト政権が誕生する。

 古代とは、日本においては古墳時代から平安時代中期、つまりヤマト政権の成立から藤原氏による摂関政治の盛行まで取り扱う。この時代区分は凡そ800年程の歴史を持ち、人類が文明を持ち始めて以来、最も長い時代区分である。人類の一番最初の発展を描き、それが崩壊するまでの歴史を記述する。

 ヤマト政権がいつ誕生したかは未だにわかっていない。邪馬台国の時代からの空白期間に何かしらの出来事が起こり、ヤマト政権が成立したのだろうと思われる。36世紀、この時代は大型の墳丘墓である古墳が全国的にみられる事から古墳時代とも言われ、または大和が中心であったことから大和時代とも言われている。記紀によるとヤマト政権は神話から始まった。神話と邪馬台国、何かしらの関係はあるのだろうか。

 ヤマト政権は欽明朝以降、飛鳥で宮を構える事が多かった。推古以降は特に強く、推古から持統天皇の時代を飛鳥時代と呼ぶ。この時代は正に中央集権化の時代であった。当時の皇族達は、明治維新の英傑と同じような気持ちで動いていたのだろう。所謂、聖徳太子の野望は、天智天皇の引き継がれ、天武のものとなり、文武天皇の代で大成された。律令国家である。この基盤は無味となり、形を変えても尚、明治維新まで存続した。

 都は藤原京から奈良の平城京へ移った。この都を中心に開かれた60年の歴史を奈良時代と呼ぶ。

 桓武天皇が平城京から平安京へ遷都したことに始まり、源頼朝の東国政権が始まるまでの時代を平安時代と呼ぶ。この時代は前期は、律令再興を目指す時代であり、幾度もの試みが見られた。しかし、それは全て失敗に終わった。またこの時代は、藤原摂関家による繁栄の時代であり、宮廷文化が花開いた。しかし、地方では早くも、天慶の乱などの混乱が始まっていた。

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日本文化のあけぼの

1 節 文化のはじまり

日本列島と日本人 

 地球は46億年前に誕生し、人類はおよそ600700万年前頃の中新世後期に、ヒトとチンパージの共通の祖先から分岐して、アフリカで誕生したと推定されている。人類は化石人骨の研究によって、猿人600万〜170万年前)・原人170万〜4万年前)・旧人35万〜3万年前)・新人30万年前以降)の順に出現してきたと考えられている。猿人を代表するのはおよそ420万年前以降にアフリカ大陸の各地で出現したアウストラロピテクスであり、この猿人は現代人の約31の脳容量しか持たないが、直立二足歩行を獲得していた。そして、およそ250万年前に猿人から原人に分岐し、石器などの道具を使用し始めた。

 更新世前期に、原人のホモ=エレクトゥスが出現する。原人はアフリカ大陸外に進出しており、ジャワ島東部で発見されたジャワ原人、北京郊外の洞窟から発見された北京原人が代表例である。北京原人の洞窟遺跡からは、多数の動植物の化石、石器、を使用した痕跡があり、原人の生活、文化が明らかになった。恐らく、言語能力もあったと考えられる。

 35万年前頃、アフリカで人類は旧人へと進化し、その代表例がヨーロッパ近辺で発見されたネアンデルタール人である。彼らは高度な石器を使い、埋葬する習慣もあったともされている。

 30万〜25万年前ごろ、アフリカ大陸で旧人よりも現代人との骨格に近い新人と呼ばれているホモ=サピエンスが現れた。代表的なのが南フランスで発見されたクロマニョン人で、現代人と同じ種に属する人類である。

 人類は地質学でいう新第三紀の中新世の終わり近くから第四紀を通じて発展したが、第四紀はおよそ1万年前を境に更新世と完新世に区分される。更新世は氷河時代とも呼ばれ、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期が交互に繰り返され、氷期には海面


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: 人類の進化と地質年代


が現在と比べると著しく下降していた。この間にいい少なくとも
2回、日本列島はアジア大陸北東部と陸続きになり、北方からはマンモスヘラジカが南下し、南方からは中国の黄土動物群に由来するナウマンゾウオオツノジカがやってきて北上した。

 人類がアフリカ大陸で石器を使用し始めたのは、およそ260万年前とされ、人類が用いたのは、原石を打ち欠いて刃をつけた打製石器であり、全体を磨いた磨製石器は完新世以降使用が盛んになった。打製石器だけが使われた時代を旧石器時代、磨製石器が加わった時代を新石器時代とよんでいる1

 アフリカ大陸で誕生した新人が東アジアに到達したのは、およそ5万年前の後期旧石器時代で、日本列島におよそ38000年前に渡ってきたとされている。現在において日本列島で発見された旧石器時代の遺跡は1万ヵ所を超えているが、更新世の化石人骨の発見は、静岡県の浜北人沖縄県の港川人山下町第一洞人白保竿根田原洞人などごくわずかである2

旧石器時代の生活


2: 更新世の東アジア


 かつて、日本列島には旧石器時代がないと考えられていた.しかし、1946年アマチュア考古学者の相沢忠洋192689)が群馬県岩宿で更新世に堆積した火山灰の関東ローム層から打製石器を発見したことにより、1949年学術調査が行われた。これが後の岩宿遺跡であり、この調査以後、更新世の地層からの石器の発見が相次ぎ、旧石器時代の文化の存在が明らかになった   

 この時代の人々は、狩猟採集の生活を営み、黒曜石(ガラス質の火山岩)やサヌカイト(安山岩の一種)など鋭利に割れる石から剝ぎ取ったかけら(剥片)を用いて道具を作っていた(

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3)。

  1. 打製石斧(局部磨製石斧もある)-大型動物を捕らえるのに用いたり、土を掘るのに用いる。

  2. ナイフ形石器-大型動物に使用、槍先に付けたり、調理、加工などに用いる。

  3. 尖頭器-ナイフ形石器より後に登場し、同じく槍先に付け、用いる。


  4. 4

    細石器旧石器時代末期に登場したものであり、細石刃を動物の骨の側縁に組み込み、槍として用いる。日本では北海道で最も発達し、中国東北部からシベリアにかけてみられることから、北海道と大陸の人々は同じ文化圏に属していたと考えられる。(図4

 細石器文化の後、土器の出現共に、13000年前頃に縄文時代に入る。

 旧石器時代の研究は石器中心で行われているが、それ以外からも当時の生活を知るこ


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とができる。(図5

大阪府のはさみ山遺跡からは、地面を円形に掘りくぼめて柱穴をめぐらした住居の跡が発見された。肉などを蒸し焼きにした礫群は各地に発見されている。しかし、縄文時代と比べれば、土地残された生活の痕跡は少なく、この理由は、旧石器時代の人々は定住せず、数十人の集団で移動しながら生活していた為であろう。そのため、住居もテント式の小屋であったり、洞穴を利用することが多かった。

 旧石器時代においても石器材料の交換や分配する仕組みがあったと考えられる。詳しくは縄文時代の欄に記述する。

 縄文文化

氷期が終わり、完新世になると、地球の温暖化に伴い海面が上昇し、日本列島は約1万年前余りほどに、大陸から切り離された。植物相は亜寒帯性・冷温帯性の針葉樹に代わり、東日本はブナ・ナラなどの落葉広葉樹林西日本はシイ・カシなどの照葉樹林が広がった。動物相に大きな変化があり、ナウマンゾウ・ヘラジカ・ニホンカモシカは更新世までに絶滅し、オオツノジカも縄文時代草創期までに絶滅し、大型獣から動きの速い二ホンシカやイノシシを中心とする小型獣に変化した。このような自然環境に応じて人々の生活も変化し、縄文文化が成立したのである。

 縄文文化の開始はいくつかの技術革新によって特徴づけられている。

  1. 土器の出現-森林の変化に伴い、植物質食料の比重が高まり、その煮沸調理の必要から考案されたものだとされる。

  2. 弓矢の使用-大型動物が絶滅し、素早い小型動物に変化したため、弓矢が使用されたとされる。矢の先端には、軽い石鏃が付けられた。

また、縄文時代に入り、磨製石器が広く普及したことも重要である。

 年代測定法は主に年輪年代法と放射性炭素C14年代測定法などがあり、前者は樹木の年輪を分析する方法であり、後者は生物の体内に含まれる放射性炭素C14の量を測定し生物の死後の年代を測定する方法である。その放射性炭素C14年代測定法によれば土器の出現は約1万2000年前であり、世界的にも古い年代とされ、日本列島は最初に土器を発明した地域の一つと考えられる。

 こ


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れらの土器は表面に縄(撚糸)を転がしてつけた縄文と呼ばれる文様をもつものが多いので縄文土器(図
6)といわれている。縄文土器は厚手で黒褐色の低温で焼かれたものが多く、深鉢を基本とし各種の形態があり、その形態と文様の変化とともに、縄文時代は草創期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されている。

テキスト枠 1
 


「図あ」火焰型土器 縄文時代(中期)・前3000~前2000年のもので、伝新潟県長岡市馬高出土。

縄文人の生活

 縄文人の生業のうち、狩猟の主な獲物はシカとイノシシであり、弓矢のほか、落とし穴を用いて狩猟を行った。約6000年前にピークを迎えた縄文海進の結果、日本の海岸線は入り江に恵まれて、漁労が発達した。人々は、シカの角や骨で作った釣針・銛・やすなどを用いた漁を行い、網も使用した。東日本ではサケ・マスの資源が豊かだった。丸木舟も各地から発見され、ている。伊豆諸島の南端である八丈島では中期の住居跡や墓が残されており、それが鹿児島から沖縄にかけてみられることから当時の人々が高度な外洋航海技術を持っていたことがわかる3

 海岸地域には多くの貝塚が残されてることが多い。貝殻は1887(明治10)年にアメリカ人動物学者モース(18381925)が東京の大森貝塚を調査したのが最初であり、貝塚からは食べかすの貝殻や魚の骨、動物の骨、土器の破片や石器、骨角器が堆積しており、当時の人の生活や自然環境を知る重要な手がかりとなっている 。松島湾に面している里浜貝塚(宮城県)では精密な貝層の分析により、当時の人々の活動の季節的なサイクルと一年のうちに人々がどのくらい食べかすを廃棄したかを明らかにした。また、神奈川県の夏島貝塚では、約8500年前の釣針が発見されている。


7 石匙動物や植物の加工に用いらるものであり、石錘は網の重りとして用いる。ものであるので注意。

 植物採集も重要であり、当時の人々は、クリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどの根菜を主食としていた。石皿すり石はこれらの木の実をすりつぶすの用いられた。土器は貯蔵容器として、またはアク抜きや煮炊き用として用いられた。また貯蔵穴という木の実など貯蔵するのに使われた穴が各地に発見されている。

 食料が安定的に確保できるようになり縄文時代の人々は、定住的な生活が可能になった。住居は地面を掘りくぼめられ、周囲に土の壁をつくり、その上に屋根をかけた竪穴住居が営まれ、中央には炉があり、調理や暖とれる場所であった。人々は、水場で日当たりの良い台地や尾根上の平らな場所で集落を形成し、集落の中央には広場があり、それを取り囲むように数軒の竪穴住居が環状に並ぶ。これを環状集落という。三内丸山遺跡(青森市)のような大きな集落には、住居のほか貯蔵穴、墓地、ゴミ捨て場などがあり、集会所または共同作業場と考えられる大型の掘立柱建物が発見されている。

 結婚は別の集落の


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人々と行い、それに伴い情報や物の交換が行われたと考えられ、産地が限定されている黒曜石やサヌカイトは遠方まで運ばれている。また新潟・富山県境の姫川流域に産地が限定される装身具用のヒスイ(硬玉)や接着剤に用いるアスファルト、土器などに着色する赤色顔料なども交易活動などによって持ち運ばれたものだと考えられる(図
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 人々は常に自然との脅威と向き合って生活していたため、あらゆる自然物や自然現象に霊威が宿ると考えられ、信仰された。これをアニミズムと呼ぶ。

 また女性をかたどった土偶や男性を表現した石棒


9。黒曜石は長野県の和田峠北海道の白滝が有名であり、ヒスイは姫川、サヌカイトは奈良大阪境の二上山が有名である。

どは、共に繫殖や生命力を祈るものだとされ、特に土偶は破損した形で見つかることが多いため、病気や災いを転嫁したものだとも考えられている(図11)。成人の際に行われる抜歯叉状研歯(図11)の風習などもあり、これはその人の地位を示したものだと考えられている。しかし、個人の富を象徴する多量の副葬品がみられないことから。縄文時代の人々に、貧富、身分の差はみられないと考えられている。

 死者は丁重に扱われ、手足を折り曲げて横たえる屈葬が一般的であった。これは死者の霊が生者に災いをもたらすと恐れていたためだと考えられている(図8)。東


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日本では墓穴の上に石を

敷いたり並べたりすることが多く、それが発展して石の環となったものを環状列石という。環 状列石は、秋田県鹿角市の大湯環状列石が有名である(図10)。北海道では、環状の土手に囲まれた集合墓地があり、環状土籬とよばれている。

 縄文時代は約1万年に渡って緩やかな発展を辿った。総じて東日本では、集落密度が高く、人口も西日本に比べて多かった。と考えられる。しかし、縄文時代後期・晩期となると、気候変動に伴って

















集落の規模や数は減少に転じた。

  • 三内丸山遺跡(青森)-縄文時代前期から中期までの1500年間渡って営まれた集落である。 中


    12 縄文時代の集落の分布と主な遺跡

    央に道はしり、その東に成人の墓が列をなし、西には倉と考えられる高床の建物が並んでいた。北には子供の遺体や死産児が土器に収められて埋葬した墓地があった。直径1mというクリの大木6本を使った建物は津軽湾を望む物見やぐらのような施設だとすいてされている。ヒスイ玉が示すような遠隔地との交易や一時期数百人の人口規模があったとされることから、この遺跡は従来の縄文時代を覆す重要な遺跡である。

  • 亀ヶ岡遺跡(青森-晩期の代表的な土器である亀ヶ岡四季土器が出土。

  • 加曾利貝塚(千葉)-国内最大級の貝塚。

  • 尖石遺跡(長野-原始農耕の跡

  • 大森貝塚(東京)-最初に発見された貝塚。アメリカ人のモースが発見。

  • 大湯環状列石(秋田-縄文後期の環状列石。

  • 鳥浜貝塚(福井-丸木舟、ひょうたんの果皮・種子などが出土。


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2節 農耕社会の成立

 弥生文化の成立

 縄文時代が終わりに近づいた紀元前5~4世紀頃、土地を耕して水を張り、米をつくる水稲耕作が北部九州から始まった。この水稲耕作を基礎にする農耕文化が成立した時代を弥生文化と呼ぶ。この文化は北部九州を端に発し、やがて西日本一帯に広がった。

 この文化が成立した時代を弥生時代と呼び、土器や大陸からもたされた青銅器の変遷などから、紀元前5世紀~紀元前2世紀を前期、紀元前2世紀~紀元前1世紀を中期、1~3世紀を後期と区分する。

 続縄文文化と貝塚文化

 稲作は急速に本州全体へと広がったが、北海道や沖縄諸島には定着しなかった。

1世界史では石器時代に続いて青銅器・鉄器時代と、用いられた道具の素材で区別されている。しかし、日本列島は縄文・弥生時代と土器の種類で区別されている。この理由は、縄文時代において牧畜が行われなかったり、弥生時代においては青銅器と鉄器が同時に流入したりして、独自の定義付けが必要だったためである。

2 兵庫県の明石で発見された明石人は、以前は原人とする説があったが、新人であることが判明した

3遠洋漁業が縄文時代中期より発達し、イルカやマダイ、カツオ、マグロなど捕獲していた。

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