このブログの説明

このブログの説明
本ブログ名の「かもしかみち」は藤森栄一の「かもしかみち」から引用しました。そして藤森栄一は古道という著書にて以下の事を記した。「私はかつて、そうした道*(ここでは古道を指す)を懸命に追ったことがある。その時の成果は、「かもしかみち」という長篇にまとまった。しかし、力が及ばなかったこと、書き足りなかったことが多かった。いつかきっと、日本の古道を徹底的に追い詰めてみようと願った。」と。私は「知の欲望に従って、追い求める原動力」そうした意味をかもしかみちから感じ取った。故に私は本ブログにおいてかもしかみちという言葉を用いたのである。話は変わり、本ブログでは私の長い小言を書く場所と使用いたします。

人気

東遷説の限界


  邪馬台国東遷説とは、魏志倭人伝の時代において九州にあった邪馬台国が後、大和にその中枢を移したという仮説である。この説は、近畿説と九州説の両方を取り持つことができるものであり、神武東征との関連性を位置付けることもでき、とても画期的な説だと思われるかもしれない。

 確かに、東遷説をとる学者も多くいる。民族学者の谷川健一や倫理学者の和辻哲郎がその代表例だろう。しかしながら、この説は大いなる欠点存在する。


纏向遺跡の外来土器の割合
石野博信
「3世紀、大和・河内に王権を樹
立した吉備・出雲連合」より

 それが、纏向遺跡の多様性だ。纏向遺跡とは三輪山麓に存在する巨大遺跡であり、この地は初代天皇とされる崇神天皇の宮があったとされる場所から近く、箸墓古墳などの前期古墳が築かれており、ここ最近の50年、注目されている遺跡である。纏向遺跡は右の画像のようにその外来土器の多さがよく注目されている。この画像から推測するに纏向遺跡にあったとされる政権(ここでは纏向政権と省略)は少なからず日本海交易圏、吉備交易圏、東海交易圏とのパイプがあったと考えられる。しかし、この遺跡には欠点がある。それは九州から土器の搬入がないことだ。これを根拠に九州説論者は、九州の独立性を主張する。しかしながら、武具、漢鏡の埋葬、巨大な墓制などの墓には、明らかに九州的要素が存在すると思う。
    従って、纏向政権は西は北部九州、東は西中部地方に及ぶ広範囲な政権だと思える。そのように考えると図上のような範囲だと思われる。纏向政権はおもに三つの交易圏から成り立っていて、一つが赤色のキビ交易圏、二つ目が出雲交易圏、三つ目が東海交易圏の三つである。
 つまり、九州説を取るには、邪馬台国を纏向政権の一部と考えなければならない。纏向政権の広大さ故、九州説では纏向を無視できないのである。東遷説を考えるには、魏志倭人伝の時代ではなく、倭国大乱の時代か、大きな変化がみられる四世紀後半以降に求めなければならない。少なくとも、魏志倭人伝の時代に、九州に王朝があるとは考えられない。
 では東遷とは全くのありえない仮説なのか。それは必ずしもイエスと言えないのが応えである。東遷あるとするならば、まずは倭国大乱の時期が考えられる。この時期は各地での独立化が進む時期であり、これは北部九州による交易圏の掌握が崩れた結果であろうとみられている。そして大和で纏向政権が誕生する頃には、畿内を中心とする巨大な交易圏が再建されていて、加えて、その政権というのが畿内の在来要素ではなく、各地の外来要素を集合したような政権であるため、纏向政権自体外来からきた勢力であると考えられる。次に考えられる時期が卑弥呼から台与に移行する間の混乱の時期である。魏志倭人伝によれば、この間となる時期に男王が立ったとされ、その時期の混乱によって台与政権に移動されたとされている。実際この時期に畿内で大きな変容が起こっており、纏向政権は河内、キビ中心のものから山背地方中心へと勢力土台を変えている。これは政権争いの結果の産物であり、この時期に次期王として、外来から台与が連れてこられたと考えられる。または、台与の次期王として男王を立てるときにまた大きな混乱が生じて、四世紀頃に、より強権的な勢力である大和王権へ成長したと考えられる。

卑弥呼って魏志倭人伝の時はすでにババアだけど創作する時は、映えないから若く描かれる事がおおいよね。即位時は女子とかかれているから多分200年頃の設定なら若く描ける。卑弥呼を描いたものといえば学習まんがのものが有名である。どっちも可愛い。昨日描いた絵の参考にした。

弥生時代の服をもっと可愛くアレンジしたいマンより






コメント