古墳時代の始まり
はじめに
近年の考古学の成果により、弥生時代の歴史観は大きく変わって来た。弥生時代の始まりはBC300年ほどからBC500年、BC800年、果てにはBC1000年であると言われるようになった。
これは古墳時代においても同様である。発掘調査の近代化、調査の進歩により、古墳時代のより詳細な内容が分かるようになってきた。これは考古学の賜物であると評価してもよいだろう。では、それ以前の人たちは古墳時代をどう解釈してきたのか、その研究史振り返って行きたい。
昭和においての古墳時代
中央公論社の「日本の歴史①神話から歴史へ」と「日本の歴史別巻①図録 原始から平安」からその様子を伺いたい。
「魏志倭人伝」の邪馬台国の記述(3世紀)からしばらくして4世紀に古墳が登場する。古墳の発生は考古学的には大きな変化であるが、三世紀末から四世紀末までの間は「謎の世紀」と呼ばれるほど史料が欠損してる時代であり、その詳細を知るのは難しい。それ故、学者たちは考古学的事実と日本書紀の記述を駆使して、解釈に努める。
当時においても古墳の前身が邪馬台国卑弥呼の時代からあったと考える人がいる。しかし、その確固たる証拠がないため今より弱い説だと思われる。しかし、古墳時代の墳墓は前時代の墳丘墓より規模が桁違いであるため、古墳時代の始まりにおいて大きな社会変動があり、より強力な政治権力が誕生したと考えられ、それは現代においてもおなじである。
では古墳とはどのようなものであると解釈されてきたのか。参考書では、前期古墳の比較以ってこれを示している。前期古墳の特徴は自然丘陸の上に築かれることが多く、一般的に中期より大規模であるが、奈良盆地においては前期においても大規模であると言う異質さを有する。そこで筆者は弥生式墳丘墓から原始古墳が見つけ出せるのではないかとした。しかし、そのような墳墓はあまりにも小規模であり、古墳と呼ぶのは難しい。つまり、当時の研究者には突如として古墳時代が始まったように感じ取っていたようである。また、古墳の発生を奈良盆地ではなく、九州地方の前期古墳と考える人がいたが、その古墳自体、奈良盆地のと同時代がそれよりも新しく、古墳の発生を説明するには難しいものであった。だが、前期古墳は依然として弥生時代の銅鏡が副葬されることが多く、学者はそこから古墳時代と弥生時代の連続性を感じ取っていったのであろう。その鏡の問題は現代においても依然と不明瞭であるが。
古墳の波及は何を物語るのか
当時において、発掘調査は未だ進んでおらず、古墳の起原たるものは奇怪で突然的のように思われる。それに対し、古墳の伝播についての解釈は現代と等しく、または連続する鋭い指摘がある。西嶋定生氏は古墳の伝播、または古墳に種類があることをヤマト政権によるランク付けとし、後の姓制のようにその豪族の身分を表すものだとした。このような考えは現代にも繋がる考えとして非常に重要な意味を持つ。しかし、現代においても当時においても古墳の種類による違い、伝播の意味が文献によって説明されてることがなく非常に難しい問題である。
神話をどう解釈するか
纏向遺跡で祭祀の場所とされる大建物群跡が発見されてから、日本神話は再評価に向かってる。ある人は纏向の建物群を卑弥呼の宮と言うし、ある人は崇神天皇の宮だとする。このような論争は今に始まったことではない。昔から、三輪、卑弥呼、崇神天皇の関連性は語られてきたことである。
学者たちは謎の世紀を記紀の記述からの埋めようとした。まず始めに神武東征があるが、抑紀元前660年という年は推古天皇9年(601年)から1260 年前、つまり二十一度目の辛酉の年に革命が起きるという「辛酉革命」の説の年数と一致しており、推古朝の政治改革を際立たせるため伸ばされたまたは作られた年とするのが一般的である。重ねて、日向起点とするのも可笑しく、日本書紀においても日向は「そじしの空国(痩せた地)」と評されるほどの未開の地であり、その地を皇室発祥とするのが異質であり、近畿に到着するまでの駐在地は地名でけ記されて内容がない。それ故、東征神話は日向と大和を結びつけるために生まれたのであり、史実性がなく、神話であるとしている。
対して、東征神話を肯定的に解釈する人もいる。和辻哲郎氏は東は銅鐸、西に銅剣、銅矛が分布し、銅鐸の文化は古墳時代が入る共に埋められ、滅亡し、対し、銅剣、銅矛は草薙剣のように皇室のシンボルとして残ります。このことから、和辻氏は最終的に邪馬台国東遷説まで発展させ、大和の起原は北九州の山門である。という論に完成させている。この論は神話と考古学的事実をあわせた極めて有力な説だと思われる。
しかしながら、小林行雄氏はじめとする考古学者にとっては二項対立云々というという論考の評価はおまり芳しくなかった。小林氏の鋭さの通り、後において銅鐸は北九州でも発見されることになり、銅鐸文化圏、銅剣銅矛文化圏の二項対立は、弥生後期のそれぞれ共同体が成熟した特異な時期のことであるとみなされるようになる。
神武天皇の次代は所謂欠史八代と呼ばれる時代となる。この八人の天皇は記述が極端に少ないに加えて、前代とは子と子の関係で結ばれ、後の兄弟が次々と位を継ぐという相続とは異質な結びつきである。それ故学者は欠史八代ど神武を含めて神話とし、史実のないものとし、神武天皇の次にハツクニシラスメラミコト(つまり、初めて国を治めた尊)と称される崇神天皇を実際する天皇としている。
崇神と三輪
神武東征の時代が不明瞭である以上、崇神はいつの時代の人なのかという問題を解明することが重要である。ここで筆者はほぼ確実に在位年代が判る応神天皇が五代前として逆算し、四世紀後半として解釈している。その際、筆者は系譜の解釈を加えている。記紀においてでは応神天皇と崇神との間に神功皇后、日本武尊の神話的事象が記されており、そのまま史実と解釈するのはむずかしい。また成務、仲哀、神功皇后の御名は後世風の名前である。そこから、成務、仲哀天皇は実在性の薄い天皇とし系図が後世において書換えれたものとした。そして応神天皇は実際、婿入りの天皇とし、系図Bと解釈した。
| 井上光貞1965年「日本の歴史①神話から歴史へ」中央公論社 279頁 |
当時においてはまだ纏向遺跡の発掘調査本格的に始まっておらず、崇神王朝が三輪山の麓に宮を築いたことと、同じく三輪山の麓に纏向遺跡の関係性は論点に上がることはない。しかし、初期古墳が奈良盆地と東南部に集中することから、何らかの関係性は汲み取っていただろう。
弥生後期の動揺
地方の独立と交流
楯築墳丘墓
西谷3号墓
平原1号墓
奈良盆地と纏向遺跡と墳丘墓
古墳時代の交流
参考文献
井上光貞1965年「日本の歴史①神話から歴史へ」中央公論社
井上光貞、竹内理三1967年「日本の歴史別巻①図録 原始から平安」中央公論社
和田晴吾2024年「古墳と埴輪」岩波書店
寺沢薫2008年「王権誕生」講談社
石川日出志「農耕社会の成立」岩波書店
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